Se projeter dans l'avenir 〜INSEAD MBA留学記〜

2018年8月からINSEAD MBA留学。MBAで感じたことについて毎日つづります

1月7日 〜P3授業初日〜

今日はシンガポールでの授業初日。といってもまだシンガポールには昨日到着したばかりで、空港に隣接するホテルから出発し、今回シンガポールにて滞在する住居まで移動し、入居手続きを済ませてからになる。
 
正午にシンガポールキャンパスに到着。キャンパスはフォンテーヌブローとは異なり、学校というよりかはオフィスビルのような作り。フォンテーヌブローは二階建てで、広い森の中に平屋のように広々とキャンパスがあったが、シンガポールは高層ビルのような形でフォンテーヌブローとは雰囲気も異なっている。
 
正午にはシンガポールキャンパスに今回のピリオドで移動してきた学生向けへのキャンパス説明会。三週間近くのブレイクを経てシンガポールで合流することもあり、それぞれの再会を喜ぶような形に。日本に帰っていたからわかるけどやはりこの学生の雰囲気は本当になかなかない良いものだと思う。終了後にキャンパスの外で友人と昼食。米中貿易戦争について中国人と意見を交わす。
 
午後はM&A/Alliance/Corporate Strategyの授業。このピリオドから選択科目が始まり、これはStrategy科目のうちの一つに当たる。内容は日本語訳がそのまま似合う「コーポレート戦略」。全社としてどのような事業を、どのような形で持つのか、そしてどのようにシナジーを起こすのかについて。1回目の授業はイギリスの銀行のケースを用いて、M&Aによるシェア拡大か、多角化による海外進出かなどの選択肢についてQualitativeな観点で議論。
 
夜は住居に戻って生活の立ち上げ。シンガポールはフォンテーヌブローと比べて大都会で、徒歩圏内に色々なショッピングモールが並ぶのは本当に便利なところ。
 
では、では

シンガポール!

ということで、三週間近くのP2P3のブレイクを終え、7日より始まるP3に向けシンガポールに到着しました。以前はヨーロッパということもあり事前にかなり意気込んで準備していったのですが、今回は馴染みのあるアジアということもあり、あまり準備に気合が入らず笑 

 

フライトが夜遅くにチャンギ空港着ということもあり、空港近辺のホテルで一泊することにしました。

 

シンガポールに来て毎回思うのが、ここもとてつもなくダイバーシティな社会だということ。中華系がマジョリティではありますが、それでもそれぞれのエスニシティを尊重するような文化になっているような気がします。あと中華系といっても、南方(客家や福建)系の人が多いかなという印象。中国に慣れてくるとわかるのですが、中国と一言で言っても、体格や容貌、喋り方などはその人の出身によって違いが出て来ます。ここはその中でも南方系(と言っても言語化できないのが悩み)が多いので、個人的には親しみがわきます笑

 

では、では

「MBA不要論」について考えてみた②

前回の「MBA不要論」について考えてみた①からほぼ一年近くが経ちました。現在絶賛プログラム進行中ですが、もう一度この問いについて考えてみたいと思います。

dajili.hatenablog.com

 

なぜこのタイミングなのか。というのも、以下記事を見つけたからです。

www.fastgrow.jp

 

三谷宏治氏といえば、BCGやアクセンチュアなどのコンサルティング分野で経験を積んだのち、日本の経営大学院等で教鞭をとる方であり、「ビジネスモデル全史」などの有名なビジネス書の著者でもあります。INSEAD卒業生ということもあり、勝手に親近感を抱いているのですが笑、結構この方の本を読んで「きちんと経営を勉強したい」と志したところもあります。

 

その三谷宏治氏のインタビュー記事が上記のリンクなのですが、コメントが非常に示唆的でとても興味深いです。三谷宏治氏の指摘に従えば、「日本企業で普通に働く場合には」「学位として必要かといったら」「ほとんど必要ない」だそう。そして、「MBA取得には明確な目的意識が必要」と述べています。

 

なぜそう言い切れるのかというと、これも三谷氏が指摘しているのですが、MBAはものすごく広く浅い学問であり、マーケティング、人事、生産、財務といった異なる分野を1年や2年でさらっと学ぶものです。このため、MBAでは経営全体を俯瞰するという視点を得ることはできても、上記のいずれかの分野の専門性を極めて行く、というようなことにはなり得ません。現代では人材の流動性が高まり、それぞれの分野でキャリアを積み、専門性を磨き上げてきた人が人材として評価されつつある中、そんな広く浅く上澄みの部分を見るだけで果たして足りるのか?という批判があっても然るべきかと思います。

 

そしてもう一つが「MBAには明確な目的意識が必要」という点。三谷氏は「日本人の多くは、『このままでは将来つぶしが効かない』という漠然とした不安感でMBAに行く」と指摘、海外の留学生と比べ目的意識が低いと嘆きます。確かに、巷のビジネス書コーナーでも「知らないと恥をかく」「ビジネスパーソンとして知ってておきたい」といったような本が並び、不安解消型マーケティングに基づくビジネススキル習得の促進がなされています。MBAもなんとなくその延長線上に置かれ、「MBAとっておかないとまずい」というような形で考える人もいなくはなさそうです。

 

ただこの視点、私はこの意味を全く逆に捉えました。三谷氏の指摘のネガティブな点を強調してようやくすれば、「MBAは広く浅くの学問であり、目的意識がなく修得するのであれば、日本企業で普通に働く分にはほとんど必要ない」ということになります。ただこれは逆に言えば、「目的意識をもって、経営全体を俯瞰するためにMBAに行くのであれば、日本企業で普通でない働き方になる」というものです。

 

「経営全体の俯瞰」という意味では、まさにP1P2で感じてきたことです。コア科目ではありましたが、二つの意味で大きな学びがあったかなと振り返ります。一つ目に、三谷氏の指摘する「鳥瞰」の観点。私は以前海外営業、かっこよく言えばマーケティングの仕事に付いていたわけなのですが、マーケ、戦略、ビジネスエコノミクス、組織行動などを広く浅くやっていると、自分の今までの視点が経営の中でも末節の側に位置していたなと痛感します。担当者目線では、ある市場のある製品における、一つの視点のみでしか物事を捉えきれませんから、どうしても見えるものが限られてしまいます。ただ今のように全体をバランスよくみていると、今まで自分が実務の中で抱いてきた疑問、特に全体方針と自分がやっていることのギャップや、組織に対する不満が思い出され、「ああ、あの時はこういうことだったのか」と振り返ることがしばしばありました。そうした過去との対話を元に、徐々に経営における「鳥の目(=全体を俯瞰する視点)」と「虫の目(それぞれの分野に着目する視点)」とが明確に区別されるようになってきた、そんな気がしてきています。

 

そしてもう一つ目は、異なる分野の有機的なつながりです。財務やマーケティング、組織など、一見すると関係ない分野に見えてくるこれらが、あるところで繋がるところがあります。例えば、管理会計で出てきた問題点というのが、実は組織行動論でも問題になってくるとか、マーケティングの考え方をどんどん発展させて行くと、ビジネスエコノミクスで学んだ理論に近づいてくる、などが挙げられます。INSEADのコア科目はそういう意味ではとてもうまく作られていて、そうした異なる分野での「有機的な連鎖」をうまく起こすように設計されているような気がします。それはINSEADの教授陣が、学生が受講する異なる科目の授業において、どのようなケースが扱われどのような議論がなされているのかに付いてきちんと情報を共有していて、例えばマーケティングの教授が、「君たちはファイナンスでこの視点についてこのケースを元に勉強したけど、マーケティングの観点で行くとこれは〜」というようなシーンが多く見受けられるわけです。この中で、否が応でもこうした異なる科目のつながりを意識することができます。

 

この、経営全体の俯瞰というのはとても勉強になりますが、だからと言ってそれがすぐに活用できるわけではありません。なぜなら、こうした視点を持つ人材が一番活きる場所というのは、大きな組織において、組織の方向性を決めるような重大なポジションだと容易に想像できますが、MBAを卒業した20代後半から30代前半のビジネスパーソンが、そんな全体を俯瞰するようなポジションで仕事につけるわけがないからです笑 これは当たり前と言えば当たり前のことなのですが、学生の中には結構ここを忘れてしまうために、外部からは「目的意識がない」と思われてしまうようです。

 

そこで大事なのが割り切りかなと思います。今習得している知識というのはすぐには活用できないものであることを理解したうえで、この経験を自分の仕事人生のどこでどのように活用するのか、しっかりとイメージを持って取り組む、これが三谷氏の言う所の「目的意識」なんじゃないかなと。そうした考え方に違和感を持つ、すなわち喫緊のビジネススキル向上のための劇薬が欲しいということであれば、それはそれでMBAは不要ですし、メタな認知に浸かりたい、ということであればMBAはとても良い環境なんじゃないかと。

 

まあ詰まる所、MBA不要論に対する議論というのは、楠木建氏がいうところの「好きなようにしてください」という言葉に終始するんでしょうね笑

 

では、では

海外MBAでダイバーシティについて考える

現在世界でもトップクラスの海外学生比率(97%)を占めるINSEADにて勉学に励んでいるのですが、ここで考えてしまうのがダイバーシティについてです。

 

ダイバーシティ(Diversity)という言葉は、日本社会でも取り上げられるほどポピュラーな言葉となってきました。「組織にもダイバーシティを持たせよう」「ダイバーシティ社会の実現に」なんていうフレーズが飛び交ってきたのも最近のことです。

 

ビジネススクールにおいては、特に欧州の学校で強みとして取り上げられています。大きな理由として、アメリカのビジネススクールと比較して(アメリカではアメリカ学生の比率が高いと言われています)、留学生比率が高い、また留学生の出身が多岐にわたっているということで、アメリカにない特徴としてあげているようです。

 

確かに、現在プログラムの前半部分を終えて感じるのは、INSEADが持つとてつもないダイバーシティの環境です。グループワークでは、国籍(イギリス、アメリカ、ザンビア、トルコ、日本)や職歴(コンサル、金融、エンジニア、社会起業家、マーケ)ともに全く異なるバックグラウンドの人たちと議論をしなければなりません。お互いに自己主張が強く、また各分野での経験もあることから、議論を一つにまとめるだけでも一苦労です。

 

またセクション(コア授業を共に受けるクラスのようなもの)では、それぞれが各自の経験や出身国の事情について発言します。このため、「このケースでは◯◯だ。だが私の国ではこれは通用しない、なぜなら△△〜」「**(国名、都市名)では、この事例と似ている例が##だ」と行ったようなコメントが飛び交います。加えて英語のアクセントも、それぞれ異なる訛り(インド、ブリティッシュは聞き辛い笑)が飛び交うので、とても刺激的な授業となっています。

 

こうして、半ば人工的に作られた「最高クラスの多様性空間」にいたわけなのですが、ここで考えてしまうのは、「ダイバーシティってなんだろう?」という素朴な疑問です。この社会的な時流として「ダイバーシティは良い」という考え方が流布しており、我々は得てして半ば当然のようにこの価値判断基準を受け入れているような気がします。しかし、そもそもこの考え方っていうのはなんなんだろう?どうしてこんな考え方が出てきたんだろう?と疑問が湧いてきたためです。

 

というのはなぜなら、このダイバーシティ空間が決して心地良い環境とは言えないからです。だってグループワークは意見が合わず議論が飛散することもあるし、セクションでは学生同士で「いやいやその考え違うっしょ」という議論バトルが勃発することもしばしば。決して快適な空間とは言えません。皆が賞賛するような「ダイバーシティは良い」という価値判断からはかけ離れた環境であって、いわばカオスのような状況なわけです。

 

 

じゃあダイバーシティはどういうメリットがあるのか?それは言い換えると、「多様な国籍・バックグラウンド・価値基準を認めれば」、何かプラスになることが起きるということになります。例えば何かを作り出す組織であればイノベーションが促進されるとか、より効率的に物事が進むとか、そういったことなのでしょうか。

 

ただ、ここまで考えると、果たしてそうなのか?と思ってしまいます。上記から言えば、究極のダイバーシティ空間というのはカオスですので、議論は飛散し、イノベーションが促進されたり効率的になったりといったダイバーシティのご利益をまるで感じません笑 

 

ところが、どうやらダイバーシティは組織の運営に良いということが科学的に証明されているようです。経営学者による組織開発の研究が進んでいて、しっかりとマネジメントされたダイバーシティ組織では、他のどの組織よりもイノベーションが促進される、ということが多くの研究で主張されているようです。つまり、どうやらこのカオスな状況に何かブレイクスルーがあるらしい、ということをこれは示唆しているわけです。

 

このカオスな環境について考えてみましょう。どうしてダイバーシティな環境というのは、こうも不快なのか?これをたどってみると、やはり自分の価値基準とは離れた価値基準となります。すなわち、自分が慣れ親しんだ価値基準ではない何かがそこにあって、そこから時折自分が培ってきた考え方を全否定するような考え方が真っ向勝負を仕掛けてくる、そんな状況なわけです。ただ、それが良いというわけですね。そこに組織を促す何かがあると。つまり、自分の考え方と、自分とはかけ離れた考え方とをうまく組み合わせることで、何か今まで考えることができなかったブレークスルーが生み出される、というところでしょうか。

 

ただ、これってとても難しい。なぜなら、自分の考え方は、自分が納得が行くものだからこそ発展してきたものです。自分に合わない考え方は吸収せず、どんどん排除していく傾向にあるもので、そうした自分に合わない考え方とぶつかった際には、受け入れられないと思うのが世の常です。ただ、そうではいけない、ちゃんと吸収しないといけないというのが上記で言うところの「しっかりとマネジメント」するということなのでしょうか。

 

そうした観点では、このカオスに慣れること、この不快な環境が「ダイバーシティは良い」の根源ということなのでしょう。非常に逆説的ですが、人々が不快に感じれば感じるほど、それは良い状態である、ということになります。

 

ここで、もう一つの疑問が浮上します。人々が不快な気分をすることでダイバーシティの良さが発揮されるのであれば、そもそも「ダイバーシティは良い」という考え方は果たして良いものなのか、なぜそこまでダイバーシティにこだわるのか、というものです。トートロジー的な疑問になってしまうのですが、言い換えればこの問いは次のようになります。

 

ダイバーシティは良い」という考え方を貫こうとすると、「ダイバーシティというカオスな環境」は避けられない、それはとても不快な環境です。ではその不快な環境を受け入れてでも、「ダイバーシティは良い」という考えに固執してメリットはあるのか?ということになります。

 

この問いに答えるために、ここで問題になっている環境とは反対の場合を考えてみましょう。すなわち、皆が単一的な考えを持ち、人々にとってとても心理的プレッシャーの少ない、快適な環境です。この環境の方が暮らしやすいんじゃないのか?と正直思ってしまいます。

 

ここで思い出されるのが、J・S・ミルの『自由論』です。この本では、多数者の専制という言葉を用いて現在の民主主義、ひいては組織について注意を促しています。この概念においては、民主主義の社会では、得票数などによって自他共に承認される「多数派」が、自分たちの意見を「真理」と見なしてしまうことで、意見の異なる人たちに対して、不寛容になる傾向がある、といいます。そしてこの傾向が続くと、多数派ではない意見を持つ人々は非難され、活躍の場を与えられなくなってしまう。そして、もしそうした少数派の中に、世界を変えるような独創的な意見や着想を持つ人がいたとしても、そうした考えが抑圧されてしまうために、社会の停滞につながってしまう、という点に警鐘を鳴らしています。

自由論 (光文社古典新訳文庫)

自由論 (光文社古典新訳文庫)

 

 

 

つまり、「皆が単一的な考えを持つ環境では社会の停滞に繋がる」ということがここでは言えそうです。単線的な進歩観で物事を考えるのも如何なものか、という疑問は残りますが、とりあえずここではそういうこととして受け止めたいと思います。ということは、やはり「単一的な考えを持つ環境はよくない」という消去法が成立します。すなわち、「ダイバーシティはよくない」という考えは否定されるので、「ダイバーシティは良い」と言わざるを得ない、という感じになるのでしょうか。

 

随分と回りくどく進めてきましたが、ここでわかってきたのは、どうやら我々はこのカオスを受け入れる他ないようです。ダイバーシティ環境を不快に感じるのは、それはダイバーシティ環境がダイバーシティ環境たり得ている証拠であるわけです。それを不快に思うことなく、むしろそれに耐えうるレジリエンスを持つことが大事、ということなのでしょうか。

 

では、では

 

INSEADの授業から、TOEFL/GMATについて振り返る

あけましておめでとうございます。来週からシンガポールで授業が始まるわけなのですが、現在は日本に滞在し、いつもと変わらぬ年末年始を過ごしています。日本に戻ってきて色々と留学生活を振り返り、改めて現在の経験の価値について考えています。その中で思うのは、英語についてです。

 

私は英語圏での滞在経験はおろか、留学経験もないいわゆる「純ドメ」に属する人間ですので、英語でのコミュニケーションについてはそれなりに苦労している印象です。各国のアクセントに苦戦したり、自分の言っていることがうまく伝わらずなんども聞き返されたりと、一般的な日本人学生が苦戦するところでしっかりと苦戦しているような気がします。

 

そこで思うのが、出願時にあれだけ勉強したTOEFL/GMATはなんだったのか、という疑問です。御多分に洩れず、英語のスコアメイキングには大きく苦労しましたし、逆に言えばそれなりに時間をかけて準備してきました。にも関わらず、まだまだ勉強が必要だなと感じている今日この頃であるわけです。とは言いながらも、TOEFL/GMATの勉強は現在のMBA生活を行う上でとても有益だったかなと思います。なぜかというとこの勉強と通じて得た観点を、そのまま学校で使っているような気がするからです。特にGMATについては、それぞれのセクションがうまく活きています。

 

AWAはそのままレポート書くのに使えています。勿論、ネイティブに比べると英作文の質(特にワードの選び方)は劣りますが、論理展開や文章構成などではうまく活用しているかなと思います。Verbalについても、Critical ReasoningやReading Comprehensionについてはケースを読む際や議論をする際のベースとなる考え方となっています。特にRCはケースでとても役に立ってます。Quantitativeについては、ファイナンスやビジネスエコノミクスの授業で必要最低限の知識として重要となってきます。

 

当初TOEFLやGMATの勉強を進める際には本当に苦しかったのですが、今振り返ると、MBAの予行演習をしていたような気がします。数年前にスコアメイキングをしていた自分に「やっててよかったよ!」と言ってやりたい気分です。笑

 

では、では

モビリティについて考える

www.chunichi.co.jp

 

新年あけましておめでとうございます。今年もMBAを中心にビジネスについて、そして読んだ本について、更新頻度高めにどんどん書いていこうと思いますので何卒よろしくお願いいたします。

 

さて新年一発目は特に学校関連ではなく、日本のビジネスについて。名古屋市で、トヨタソフトバンクが提携し自動運転実用に向けた実験を行なっていくことで合意したというニュース。新年早々とても興味深く見ました。

 

モビリティについては私が一番興味を持っている分野なのですが、ビジネススクールではそこまで注目されていない印象です。UBERのケースはよく授業でも取り上げられるのですが、ほとんどがUBERがどのようにして戦略的に現在のポジションを築き上げて言ったかという観点で議論がなされている一方で、あまりどのようにして自動運転などを結びつけてモビリティ社会を再構築していくかという点についてはあまり議論ができなかったイメージがありました。

 

一方で日本ではかなりモビリティ社会についての議論が進んでいる印象です。というのも自動車産業は日本にとってもとても重要な産業であり、大手自動車メーカーもかなり危機感を持って取り組んでいるような印象を受けます。

 

そうした中でのこのニュースですが、場所的には面白いのかなと。名古屋市はまあトヨタのお膝元ということであり、自動車社会にいち早く取り組んでいた場所でもあります。加えて、都会・郊外・田舎がミックスしていて良い。名古屋中心市街は日本でも有数の大都市ではありますが、郊外は完全な車社会だったりして、意外とアンバランスなところがある。そうしたところに、現在のテクノロジーを用いて問題解決ができるという点で、課題先進国ならぬ課題先進都市なのかもしれません。

 

 

AIなどのテクノロジーの分野では、アメリカや中国などに出遅れている印象があるのですが、日本初のモビリティ・ビジネスモデルが出てくるのを個人的には期待しています。

 

では、では

楠木建『好きなようにしてください』〜読書リレー(162)〜

 

好きなようにしてください―――たった一つの「仕事」の原則
 

 

ということで、東京に一旦里帰りしました。今は年明けの準備等をしながらゆっくり過ごしている状況です。

 

今年は200冊以上の本を読むことができました。去年に比べるとかなり数は減ってしまいました。残念。とはいっても、そのほとんどがMBAプログラムが始まる前に読んだもので、今年の前半に集中しているというアンバランスな状態です。まあ、致し方なし。仕事に直結するので、ビジネスの本が必然的に多くなるのですが、個人的にはやはり政治経済・歴史系の方が面白く読めます。まあ歴史が好きということもありますし、政治経済のどちらかというとマクロな視点が好みなのかもしれません。

 

おそらく今年最後の読書リレーですが、経営学者である楠木建氏の本です。Newspicksでのお悩み相談コーナーが元になっている本で、読者の悩みを楠木氏が答えて行くという形式になっています。ただこの本の面白いところは、悩み相談にとどまらない楠木氏の思考プロセスや考え方が垣間見れるところであり、あるお悩み相談では、当初の質問からはかなり逸脱したテーマで議論を進めているところなどもあり、とても興味深いです。

 

個人的に気になる議論は、環境決定論についてです。環境決定論というと聞きなれない言葉かもしれませんが、これは「どの環境に身を置くかによって、自分がどれだけ変化することができるか」という点を重視する考えで、この考えが強いと、「どこに行くか?」という問いが最優先事項になる一方で、「何をやるか?」「どうやるか?」という実践面の問いに対しては考えが至りづらいという難点があります。

 

著者は読者より、「大学に行くべきかベンチャーに行くべきか迷っている」「日本の大学に行くべきか海外の大学に行くべきかで迷っている」というような悩みを大量に受け取りますが、それらの多くを、「環境決定論に囚われている」とコメントして戒めています。何故ならば、環境が全ての人間を決めるわけではないからです。

 

この環境決定論に対する批判、非常に当たり前な観点であるはずです。しかしこれが多くの人を依然惹きつけてやまないのは、環境選択の自由が与えられているからかもしれません。この社会では、ある環境を選ぶ際に、「どうしてこの環境なのか?」という問いに答えなければならないようなシステムになっているからで、環境を選択する自由があるからこそ、その環境を選ぶ行為に対して動機付けが必要であり、必然的に「なぜその環境か」という問いに優先的に答えようとしてしまうのかもしれません。

 

例えば就職や大学院といった環境は、その入社や入試の際に、必ずといっていいほど「なぜここなのか?」という問いを受けます。その問いに対して多くの人は、「この環境を通じて成長できる」というストーリーを組み上げて行く必要があります。このストーリー作成の段階で、論理が逆転して、もともとは「〇〇したいからここに行く」が、「ここに行けば〇〇できる」という風に考えてしまう。そこには、「What to do」や「How to do」の視点が欠如してしまう、という問題が発生します。

 

 

環境決定論の最大の問題点は、何か思い通りに行かなかった場合、全てを環境のせいにしやすくなるということです。ロジックとしては簡単で、何か物事を成し遂げられなかった場合、「ここに行けば〇〇できる」と思って飛び込んだ環境だから、「やっぱりそうじゃなかった」と片付けてしまう。だからどんどん悪い方向に向かっていってしまうと言います。環境のせいにしてしまうと、そこでさらなる自己研磨は止まってしまうわけですので、そうならないように気をつけなければ、と思った一冊でした。

 

では、では