舘〓(すすむ)『バーチャルリアリティ入門』〜読書リレー(78)〜

バーチャルリアリティ第二弾。今回は、この分野の「古典」とも呼ばれる一冊を読んでみました。

 

バーチャルリアリティ入門 (ちくま新書)

バーチャルリアリティ入門 (ちくま新書)

 

 2000年代はじめに書かれた、バーチャルリアリティに関する入門書。そもそもバーチャルリアリティとは何かという概念の紹介から、それぞれの感覚器官において、どのようにバーチャルリアリティを実現するのかの当時の最新技術の紹介を行なっています。10年前以上の本ということもあり、ここで紹介されているテクノロジーはすでに古くなっているものもみられますが、各論で紹介されているコンセプトそのものについては、今も有効な考え方であり、現在ブームがきているバーチャルリアリティに関しても考え方の軸として役に立つものとなっています。

 

バーチャルリアリティ(Virtual Reality)という言葉を、日本語で表現すると「仮想現実」になりますが、著者はその訳語に意義を唱えています。そもそもVirtualというのは、「仮想」ではなく、「見た目は違うがほとんど実物の」という意味です。バーチャルはバーチュー (virtue) の形容詞であり、しばしば「徳」と訳されます。つまり、それぞれの物には本質的な部分があって、その本質を備えている物がバーチャルな物ということになります。したがって、日本語訳の「仮想」というのが、いかにかけ離れているかがわかります。

 

哲学的な話にはなりますが、今人間が「目」でみているものが、本当の現実を表しているのでしょうか?特に自然科学の分野から、この問いに対して答えるとすると、それはは「No」になります。なぜなら、この世の中には、人間が視覚することができない世界があるわけです。例えば、紫外線や赤外線などは、人間の目には見えませんが、確かに色を形づくるものとして、この世界に存在しています。

 

こう考えると、機械によって人工的に作られたVirtual Realityと、人間の視覚がとらえるRealityには、それぞれ「人工的に作られた」という点では一致するわけです。こうなると、どちらもある意味ではVirtualな存在であり、機械が補助するという視座に立てば、今我々が考えているバーチャルリアリティの技術には、様々な応用方法が考えられそうです。

 

もう一つ、バーチャルリアリティを考える上で欠かせないのが、人間と自然物の関係性です。人間は、人工物であるにしろ自然物にあるにしろ、それらに昨日と役割を付与することによって、新たな現実を獲得しています。例えば、本というものは、物質の側面から見れば、単純に紙の集合体なわけです。しかしながら、それの文字が解読可能であれば、それは読み物としての機能が付与され、「知識を得るためのもの」という意味を持った新しい現実として再構築されます。同様に自然物に対しても、長い歴史の中でどのように対応すれば良いのかがわかっているわけですから、その対応法が使用可能という現実を作り出しているわけです。

 

これを逆に捉えるならば、長い歴史の中で人間が培った「対応法」に即した人工物を作り、人間が慣れ親しんだ人工物に接しているものと同じような感覚で退治できるような、新たな人工物を作れば、新しい現実を簡単に作ることができる、ということになります。これこそ、バーチャルリアリティの求める姿であり、著者の言葉を借りれば、「あらゆる機械は、何も知らなくても、古くからあるものと同じように直感的に理解でき、動かせるインタフェースを最低限もつべきであって、それこそまさに、バーチャルリアリティが追求しているものなのである。」ということになります。

 

この著者の主張を読んで、ふと思い出したのはiPhoneです。あれのすごいところは、説明書がなくても、人間が慣れ親しんだ直感的な操作によって、ハードウエアを動かすことができるインターフェースを有している、という点です。そして、この「慣れ親しんだ」というのは、一つの文化や社会的な側面を超えて、全人類共通の「慣れ親しんだ」というレベルのものでありました。だからこそ、あれだけ世界にインパクトを与えるような新しい人工物になったわけです。これこそが、著者の言う「バーチャルリアリティが追求するもの」の究極系だった、といえなくもないでしょうか?

 

この本が出されたのは2000年代初頭ですが、なんら色褪せない主張だと思います。現在はデジタル・AIなどがキーワードになっていますが、そうした中でも、この「直感的に理解でき、動かせるインターフェース」と言うのは、今後変わらずに求められてくるものになってくるのではないかと予想します。

 

では、では