働く世帯の悩みは社会構造が原因かもしれない〜中野円佳『なぜ共働きも専業もしんどいのか 主婦がいないと回らない構造』*読書リレー(163)*〜

 前回の記事で、日本の社会問題、特に女性の社会進出について書きましたが、非常にタイムリーなタイミングでこの本が出たので思わず即ポチ。一気に読んでしまいました。

 

この本を読んでいて、正直なところ非常に悲しい気持ちになりました。これから日本で仕事をするという選択をした家族持ちの我々。海外駐在と海外留学の生活を終え、計2年半という時間ののちに日本に戻るわけなのですが、これから待ち受ける子持ち共働きの「しんどさ」がこの本にありありと描かれており、憂鬱になってしまいました。

 

この本では現代における共働き世帯、専業主婦世帯それぞれの状況について社会学のアプローチから分析を試みています。様々な世帯へのインタビューから日本全体の政策レベルの分析に至るまで、ミクロにマクロに縦横無尽の本となっており、とても興味深い一冊となっています。

 

前回の記事でも取り上げたように、日本では女性の活躍が叫ばれています。しかしながら、一向にそれが成果が上がらないのは、専業主婦を前提とした社会システムが作り上げられており、社会構造が変わってもなおその社会システムが、以前の社会構造を前提としたままにアップデートされていないためだと指摘。現代においては、ゴースト化した社会システムが人々の家族観・社会観も前近代のものへと引き戻してしまうという悪循環が発生してしまっており、「しんどい」の元凶になっている。現在では、テクノロジーの発展が局所的な改善をもたらしてはいるものの、政策レベルでの変革が必要。というのが本書のおおよその主旨になるかと思います。

 

具体的にいうと、次の通りで悪循環が発生しています。

 

①従来は、夫はサラリーマン・妻は専業主婦という社会構造が成り立っていました。企業もゆとりがあり、男性を正規雇用で雇い、終身雇用・年功序列という非常に安定的な雇用システムのもとで保護してきました。こうした中で、長時間勤務や転勤といった、企業内の制度だけでなく、子育てや教育といった企業外の暗黙の了解までもが、「専業主婦のサポート」を前提として設計されていった

 

②現在、女性の社会進出・活躍が叫ばれ、多くの企業が総合職で女性を雇い始めてきた。しかしながら、それは単純に、「女性を今までの男性と同様に働かせる」というものであった。「専業主婦のサポート」を前提として設計された現在のシステムでは、共働き世帯は想定されておらず、様々な弊害が生じてしまう。例えば先日、少し文脈は異なるが、育休明けに転勤を命じられ、断ったら退職に追いやられた、と夫の状況を嘆いたカネカのケースが話題になりましたが、これは、転勤が専業主婦のサポートを前提としていることに起因しているともいえるでしょう。

 

③そうした中で、共働きでは日本社会で生活することが困難となり、どちらかが会社を退職して専業になるケースが出てくる。これが増えてくると、企業側も「女性はどうせやめるのだから、研修や配属は男性とは異なる形で行おう」という統計的差別が行われ始める。例えば、先日あった東京歯科大の入学試験における女性差別は、その理由について「女性は結婚・出産でやめてしまうので、男性医師の比率を増やしたかった」と平然と語られていた。

 

④専業になると、結局妻の方が稼ぎが減ってしまう。このため、「私が専業で主婦を行うのも当然」というアイデンティティが芽生えてしまう。翻って夫の方も、「自分の方が稼いでいるのだから、妻が専業で家事をやってもらうのは仕方ない」という考えに落ち着いてしまう。

 

⑤そして、新しいアイデンティティを付与された女性は、専業主婦に活路を見出し、さらに自分で自分を追い込んでしまう。家事代行には、「自分の仕事を他に委託するとは情けない」として利用せず、食事も1汁3菜自分が料理しなければという「神話」に翻弄されるようになる。一方で夫も、自分を育ててくれた母親が専業主婦であることが多かったことからその像を妻にも当てはめ、家のことはなんでも妻にやらせようとする。夫の家事における時間が依然としてOECD内で最低レベルなのは、こうした認識がある。

 

繰り返しになりますが、こうした悪循環を断つために、社会システムをアップデートする、具体的には雇用制度をもう少し柔軟にすることで様々な働き方のニーズに応えていくべき、というのが本書の主張です。

 

この本を読んだ時、「これはまさに自分だ」と思いました。なぜなら、長女が生まれてから今に至るまでの間、家族とキャリアを巡って色々と考えてきたことが、この中に含まれていたからです。というのも、子育てを巡り、夫として、また育休中の妻として、様々な葛藤や衝突や悩みがあったのですが、それらと同様のストーリーが、この本の中のインタビューでも描かれているのです。

 

例えば海外赴任の話。私はMBA進学の前に前職で中国への海外赴任を命じられ、1年半駐在していた経験があります。ここでもまさに、「転勤」に対する社会的な考え方をまざまざと知ることになりました。部署の人は非常に理解のある人たちで、「結婚したてなのに申し訳ないが、事業の拡大のためにぜひ中国で頑張って欲しい」と背中を押してくれましたが、駐在の制度には思わず首を傾げたくなりました。というのも、その海外駐在の制度設計が、どう考えても共働き世帯に合わせたものとは思えなかったからです。例えば帯同の話。原則帯同者は現地で仕事をすることができません。帯同ビザという形で、現地で就業は制限されてしまいます。すなわち、海外駐在を命じられた場合、妻が会社を退職して専業主婦になって現地に帯同するか、それとも夫が単身でいくことのどちらかを選ばなければならないのです。

 

幸運なことに同タイミングで妻の妊娠がわかり、出産後に育休を利用して中国まできてくれました。大気汚染などが心配される中、言葉もわからない環境で家族で一緒にいるという決断をしてくれた妻には感謝しかありませんが、実は駐在中お互いにアイデンティティの危機を感じました。というのも、夫=仕事、妻=育休・家事という明確な立場の違いがあり、加えて中国という慣れない土地の中で妻はますます家事にコミットしていくという構図の中で、知らず知らずのうちに、自分の中で「自分は仕事をしているのだし、家事を手伝うと妻の存在意義にも抵触するだろうから」という気持ちが芽生えるようになりました。その顕著な例が、洗い物。駐在前までは自分で掃除洗濯洗い物等の家事を平等に行なっている自負がありましたが、気がつけば食事の洗い物を妻に任せる、そしてその任せるという行為が当たり前になっていくという状況になっていきました。これはまずいということで認識を変えましたが、あの時の心情はまさにこの本で描かれている悪循環がもたらす前近代的アイデンティティの回帰現象でした。

 

おそらく私も含めた30歳前後というのは、システムと認識の違いに翻弄される世代なのでしょう。というのも、幼い頃の家庭の原風景と、今の現状が似ているようで違うために、ある種の錯覚状態に陥り、余計に適応ができなくなっているためです。私の世代というのは、母親が専業主婦であるケースが多く、そうした専業主婦の母親を見て育ってきました。一方で女性の共働きが叫ばれているため、専業主婦という幼き頃の家族の原風景・求めるべき家族像と、今社会から求められる「共働き世帯」という家族像を二つとも求めようとするあまりに、社会システムのひずみの中にどっぷりと浸かってしまっている、ということになるわけです。

 

ただし、ここで一番の問題なのが、この社会システムというのが、様々な点で相互補完的に働きあっていて、この共働き世帯の悩みを解消するために局所的に何かを変えることはできない、ということです。現在この問題を解消すべく、またしても新自由主義的な考えを用い、ダイバーシティだのの概念を振りかざして、局所的な制度を変えようとしていますが、その試みが失敗に終わるかもしれません。というのも、この大元を変えようとすると、社会保障制度から雇用制度といったマクロの面だけでなく、人材育成やキャリア形成といったミクロの面でも抜本的な変化が必要とされるからです。あれだけ古いと言われている終身雇用・年功序列がいまだになくならないのは、他のシステムとの相互補完がありすぎて、変えようにも変えられない状態になっているからだといえます。終身雇用をなくすならば、じゃあ給与体系はどうなるんだ?今までこのシステムで頑張ってきた社員は一体どうなるんだ?年功序列を変えるとするならば…という具合に。

 

以前MBAの授業で、日本の社会制度について取り上げた授業がありました。その中でも同様の指摘がされていました。その中で日本研究を専攻する教授が、興味深い主張をしていました。というのも、この社会システムというのは、第二次世界大戦後に日本が平等と生存という二つのキーワードをベースにして作り上げたシステムであり、明治維新や敗戦レベルの非常に大きな変化を伴わない限りアップデートは難しいというものです。なぜなら、2011年のあの未曾有の大震災でも日本は結局変わらなかったから、というのが彼の理屈で、その大きな変化というのが領土問題でなければいいのだが、と嘆いていました。すなわちそれぐらいのインパクトがないと変えるのは難しいというのです。

 

著者は、今のこの構造は改善の兆しを見せていると主張しています。このレベルの変化は、ビジネスではなし得がたく、政策の実行が必要となりますが果たしてどうなるのか。それは私がこれから日本に帰って実体験で感じていくことになるのでしょう。

 

では、では