雨宮処凛、萱野稔人『「生きづらさ」について』〜読書リレー(82)〜

 10年前の本ですが、今の時代にも通じるような、そんな力強さがあります。

「生きづらさ」について (光文社新書)

「生きづらさ」について (光文社新書)

 

 作家の雨宮処凛氏と学者の萱野稔人による対談方式の本で、2000年代後半時点に社会に蔓延っていた「生きづらさ」について議論された本です。

 

当時の日本では、ワーキングプアネットカフェ難民など、社会の最底辺に位置する非正規労働者にスポットライトが比較的強めに当てられていました。今振り返れば、なぜ言論界の多くが、そうした社会的に弱い立場にいる人々をピックアップしたのかと言えば、そうした人々というのは今までにない新しい存在だったわけであり、「一億総中流」の考えが強く、日本には格差社会がないと信じ込んでいた多くの日本人にとって、ある程度ショッキングな出来事として映ったのからだと思います。

 

特に、本書の著者である雨宮氏は、過去に自身もそういう立場だったことを明かし、どのような思考回路に陥って行ったのか、という点について言及されています。その観点は非常に興味深く、現在でも陳腐化していない、考えるべき内容となっています。

 

特に興味深かったのが、そうした人々のアイデンティティのよりどころです。多くの非正規労働者は、非常に流動的な就業状況により社会的繋がりができにくく、また種々の事情により、家族にも身を預けることができない境遇の人々が多数だったといいます。そうした中では、従来の社会で想定されているようなセーフティネットは形成されづらくなります。これが、「生きづらさ」につながっていくのです。

 

この状況で、人々に二つの問題の可能性が生じます。一つ目が、ナショナリズムの高揚です。一見すると遠い存在に見える二つの事象ですが、アイデンティティの付与という形で、意外な形でリンクします。社会にも認められず、また居場所がないという状況に置かれた人が、その埋め合わせをすべく、自分の存在意義が保証されるような、より大きなアイデンティティへと向かうことがあるのです。ただしそれは、もともと愛国的な考えがあったからというわけではなく、単純に居心地がよかったから、ということになるのです。

 

雨宮氏も実際に、フリーター時代に右翼系団体に所属していたことを明かしてます。その時の心情を、「右翼の方に行ったら、「こんなに若者が生きづらい社会は間違っている」といってくれたんです。すごくわかりやすい言葉で。それで戦後日本の物質主義・拝金主義が諸悪の根源で、それはアメリカと戦後民主主義に原因がある、と。」と表現しています。この考え方が、経済至上主義で虐げられている自分の境遇とマッチし、アイデンティティを付与してくれたのだといいます。

 

もう一つが、自己責任論という考え方です。非正規雇用という非常に不安定な雇用状況の中で、他人に認められたり必要とされたりすることがほとんどなく、また社会的な繋がりが希薄なために、自分自身のダメさが目立ってしまい、「この境遇にいるのは自分の能力がないからだ」という考えに至ってしまうというのです。

 

すなわち、今の自分の境遇を、社会のせいにできるか、それとも自分のせいにしてしまうかで大きく考え方が変わってしまうわけです。

 

今となっては、このような社会的立場にある人々が、言論界で注目される機会は減りましたが、状況は当時よりもさらに悪化していると思います。景気がよくなったと行っても、非正規雇用者は依然増加の傾向となっており、単純にメディアに報道されないだけで問題としては力強く残っている印象です。それは、前回紹介した橋本健二著『新・日本の階級社会』でも取り上げられています。

dajili.hatenablog.com

 

この本の中でも、「自己責任論」というキーワードが出てきますが、全てのカテゴリーにおいて「自己責任論」が強く出ているという点は注目すべきポイントかと思います。この本では、自己責任論に人々が陥ってしまう理由として、社会的なつながりの希薄さをあげており、ナショナリズムに陥るより危険だと警鐘を鳴らしています。なぜなら、自己責任論の行き着く先は、自身の存在の抹消になってしまい、社会の繋がりを持たせようとする社会化ができなくなってしまうからだ、としています。

 

もしそうであれば、この本が出されて10年後の現在、「自己責任」が蔓延っているのは大いに危険な状態であるのかもしれません。

 

では、では