だじりブログ

日々の読書から広がる考察

読書リレー(30) 島崎敢「心配学〜「本当の確率」となぜずれる?〜」

 

 

読書リレー初めて早くも30冊目に到達しました。30冊と言えば今の読書のペースでは一ヶ月分に相当するので、そのぶんをしっかりとまとめておきたいという思いはありました。少しずつこうした小さな蓄積を増やしていければと思いますので、引き続きよろしくお願いいたします。

 

さて、30冊目として選んだのが「心配学」。とてもあるあるな内容で、中に散りばめられたエピソードも身近にあふれたものであり、とても手軽に読める本です。特に主義は主張はなく、「心配することってどういうことなのだろう?」という問いに対して、様々な角度で論を展開しているので、全体としてあっさりしており、とても読みやすいです。

 

人はよく心配しなくて良いところで心配をしてしまう傾向があります。特に私の身近でも顕著なのが飛行機事故。よく知られている事項ですが、飛行機事故に遭遇するより交通事故に遭遇する方がよっぽど確率は高いわけです。それなのに、人は後者のことをあまり心配せず、逆に前者をとても心配するきらいがあります。私は年間30-50回は飛行機に乗るマイラーな訳ですが、たいてい飛行機に乗ることを家族に伝えると、「飛行機事故にあわないでね」と言われます。ただ、それは的外れな発言で、確率の面だけで心配するのであれば、どちらかというと空港に行くまでの道のりで交通事故にあわないでね、と声がけを変えた方が良いのかもしれません笑

 

この本のメインではないのですが、「どういう時に人は心配をするのか?」という点で、興味深い考察があります。

 

まずは、センセーショナルなものです。やはり人を動かすのには、データではなくセンセーショナルなものが必要だというのです。この本でも取り上げられているのですが、2015年、難民の男児の遺体が海岸に打ち上げられている写真がトリガーとなり、ヨーロッパ中で一気に難民保護に対する熱が高まった時期がありました。しかしながらそもそも難民というのは、2015年以前にも大多数いたわけであり、その写真を機に難民の数が急増したわけでもありません。ただし、多くの人は、そのセンセーショナルな写真に心を動かされ、行動に移したのです。

ここからもわかる通り、人は客観的論拠よりも主観的・直感的に訴えられる情報の方が動かされる可能性があるわけです。

 

また、逆に、「心配をしなくなるとき」というのがあります。それが、「原因と、(それによって得られる)結果に時間的な差が開く時」だそうです。例えば、マンションの購入。鉄筋コンクリートのマンションは六〇年程度が耐用年数だといわれていますが、新築物件を買うときに解体費用のことなどはあまり考えませんよね。それは、リスクがあまりにも時間的にかけ離れているために、リスクをリスクとして捉えづらいという傾向があるようです。

 

これは、投資や会計の世界でも、「割引現在価値」といって、将来にかかる費用が現在の価値に割り引いて考えると低くなることからも説明がつきそうです。つまり未来になればなるほど、そこまでに時間的な余裕があるので、それを価値化すると安く見えてしまうというのがあるのでしょう。

 

人間は心配から避けようとするあまり、あらゆる危険を後に伸ばし、社会的なコストをどんどん時間延ばしにしてしまうという傾向があるようです。例えば、クレジットカードでの買い物などがそれに挙げられると思います。現金で買うとなると何か億劫に思えるものでも、クレジットカードであれば、今お金を払うのではなく、引き落とし日になるので、その間までは心理的余裕ができます。そのために、クレジットカードで買い物をすると、いつもより多く買ってしまう傾向があるのは、私だけではないはずです。この点を本書では「リスクホメオスタシス」と呼んでいるのですが、人間は「このくらいならいいだろう」というリスクの目標水準を保っていて、それを調整しながら行動をとっているといいます。

 

しかしながら、時間を後ろ伸ばしにすることによってリスクを調整することが可能であれば、将来的な時間は見た目上無限にあるわけですから、それこそ無限のようにリスクを回避することができるように見えてしまうわけです。そのため、「このくらいならいいだろう」というリスクの目標水準が大幅に引きあがってしまう、という現象も考えられなくはないです。

 

私が心配しているのが、今の日本社会も、そうしたところが見え隠れしているんじゃないのか、という点です。今の日本の社会には様々な問題が存在していますが、それらの解決の時間を先延ばしすることによってリスク管理の歯止めがかからなくなっているのではないかと憂慮してしまいます。そうならないうちにも、こうしたリスクに対する人間の行動の性向を理解し、それに争うような行動をとって行く必要があるのではないでしょうか?と上海から思ってしまうわけです。

 

では、では