堀江貴文『べての教育は「洗脳」である~21世紀の脱・学校論~』〜読書リレー(98)〜

 教育論に関する鋭い視点だと思います。

 

堀江貴文氏による、教育論について書いた本。新書ということもあり、データで持って論破するようなタイプの本ではありませんが、一つ一つの主張に説得力があり、教育とは何かについて改めて考えさせてくれる本です。

 

堀江氏からすると、「やりたい」と言いながら行動に移さない人というものがいるという。その原因の一つに、「やりたい」と思いながら、それでもなかなか行動に移せない人たちがいる。現状にさまざまな不満を抱えながら、ひたすら我慢し、現状を受け入れている。これは、学校教育によって「我慢すること」が美徳とされてきたからだ。これを脱却し、しっかりとした知識習得のあり方を考え直すべきだ、というのがこの本の主張です。

 

そもそも、学校教育のあり方について疑問を呈しているというのが、この本のスタンスです。教育というのは近代的な考え方に基づくものであり、いかに人間を「社会的に共同生活ができるようになるのか」「労働者として、規律ある生産活動者にすることができるか」という視点からスタートしているものであり、いわば製品製造と同じで、均一なものを歩留まりを抑えて生産するという考え方でなされていたのでした。

 

しかし現代となっては、そうした均一的な労働というのは姿を消し、数年後には単純作業はAIにとって変わられるような世の中が到来して来ます。そうしたなかで、従来の考え方に基づく教育体系が果たして正しいあり方として今後も存在し続けるのか、疑問が残るというのが、この本が残した観点だと思います。

 

確かに、「学校」というものが、あくまで現実世界と離れた予行練習のものであり、社会に適応するための最低レベルの条件を満たすような水準にならざるを得ないというのは紛れも無い事実のように思います。しかしながら、だからといって学校というのはその概念から生まれて来たシステムである以上、そこから脱却することは非常に難しいのでは無いか、という思ってしまうわけです。

 

堀江氏もこの本で述べていますが、これからの人材としては、「100万分の1の人材になれ」と言っています。他の999,999人にはできない、自分としてのオリジナリティをだせと。そうすることで、自分の市場価値を高めることができると。しかし100万の1というのは一見すると非常に大変なことです。しかしこれを、人とは違う100分の1の分野を3つ作ることで、100万分の1の人材になることができます。例えば、数学で100分の1、英語で100分の1、歴史で100分の1となれば、これは100万分の1の人材になることができる、という考え方です。

 

しかし、こうした人材というのは、希少価値があればあるほど良いとされているので、学校教育のように、「全ての人に同じことをさせる」という場所ではそもそも育成することが不可能なわけです。そのため、こうした人材育成というのは、学校に求めるというよりかは、別の部分で探してく必要があるということがわかります。ですので、今の人材論としては、学校教育にその原因を求めるというのは、少し焦点がずれているのかもしれません。

 

学校教育に限らない、人材の磨き方とは何か?色々考えさせてくれる本です。

 

では、では