呉座勇一『一揆の原理 日本中世の一揆から現代のSNSまで』〜読書リレー(120)〜
個人的には、与那覇潤氏以来の刺激的な歴史書でした。
気鋭の歴史学者による中世の一揆について論じた本です。これだけいうと他の歴史書と大差ないのですが、この本が他の歴史書と一線を画しているなと思うのが、そのビジョンというか、現代に結びつけて考える着想のところにあると思います。それを論じるために、この本は歴史の実証的な描写もさることながら、「当時の人々は歴史をどのように解釈したのか」という歴史社会学的な視点もふんだんに盛り込まれており、現代の社会の問題意識に根ざした説明がなされています。特にその点が説明されているはじめとおわりの部分は、際立って面白くなっています。
その着想の先にあるのが、タイトルにもある現代のSNSです。SNSは人との繋がりという点にいて最先端の発明品であると言えます。また本書が執筆された2010年代前半は、これらSNSを通じてアラブの春などの社会運動が興隆した時期でもありました。そうした中において、社会運動に対する日本のあり方を改めて問われていた時期だったのかもしれません。そうした時期において、著者は一揆のあり方を見直し、社会運動、ひいては「ひとのつながり」について考えて見ることの重要性を説きます。
ただし、著者は従来の一揆に対する解釈の仕方には問題があると指摘しています。従来の一揆の捉えられ方というのは、左派を中心としたマルクス主義における「階級闘争」でした。中世・近世においては、日本の人々は権力に対して一揆という形で争っていた、そういう点においては日本は労働者の力はもともと強かったのだ、という論調です。これはいってみれば、冷戦中の左派の運動を促進するのに一役買ったと言い、「我々の祖先も階級闘争で争ったのだ、我々にできないはずがない」という形で、自分たちの行動を裏付けるエビデンスとして解釈されていたのだと言います。
しかし、著者が本書で明らかにしているように、一揆といってもその内実は多様であり、単純に労働者階級の反乱というだけでは説明がつかないところがあります。そうした複雑性に着目し、一揆のあり方を見ていこうというのが本書の狙いです。
この本の中で挙げられている視点は多く、ここではすべてを列挙することはできませんが、私が特に気になったのが、契約という考えです。一揆の中には、「世の中が乱れているからこそ契約という形で権力者ー労働者の決まりを定めるべき」という考え方があったそうです。これは現代にも言えることで、例えば今のように変化に激しいときだからこそ、契約によって何をすべきで何をすべきでないのかを明記する必要があるのかもしれません。
契約というと、今の日本人からしたら非常に堅苦しく聞こえますが、すでに我々の先祖が、「リスク回避」という観点でこの手段を選んでいたのは注目に値します。人との繋がりという点を考える上で、もう一度歴史に立ち返るというのも面白いのかもしれません。
にしても、中世の一揆と現代の社会運動を結びつけて考えるところに、また着想の面白さがあるのかなと思います。こういう例をみるにつけて、歴史というのはやはり現代の物差しで切り取った過去の事実に過ぎないのかなと思ってしまいます。だって、同じ現象でも時代によって解釈が変わるのですから。これは単に直線的な進歩史観的な研究史で見てもいけないものかと思います。すなわち、新しいものこそ正しく、古いものは陳腐なものという考えは、捨てなければなりません。
マックス・ウェーバーが語ったように、その切り取った視点こそに価値がある、という点を考慮すると、すなわちメタ認知的な考え方でいくと、「日本人にとって社会の繋がりとはなんだろう」という素朴な問いに対する答えが求められている、そういう時代なのかもしれません。
では、では