だじりブログ

日々の読書から広がる考察

ビジネススクールから見た「日本」

シンガポールに移ってから2ヶ月が過ぎました。P3になってからはアジアキャンパスということもあり、アジアのケースを行う割合が増えたなという肌感覚はあるのですが、それにも増して日本を捉え直す機会が多々あったなと振り返っています。ということで今回は、「ビジネススクールから見た日本」について私見をまとめてみたいと思います。

 

ビジネススクールということで、ビジネス環境から捉えた日本という視点がメインとなるのですが、INSEADダイバーシティの中で日本はいったいどのように位置付けられているのか、簡単にまとめると、世界の主流とは明らかに違う価値観を持った人、といえそうです。

 

そもそもなぜそう感じたか。本論に入る前に、大きな影響を与えた一つのコア科目と一つの選択科目について紹介したいと思います。

Macroeconomics in Global economy

概念的に学習する内容は学部生のマクロ経済学と対して違いはないが、一つ大きく異なるのが、財政政策にしても金融政策にしても為替にしても、世界各国の政策や経済状況等を比較するという手法を取っている点です。比較マクロ経済学というべきなのかもしれませんが、そうした中で日本の事例が多く取り上げられていました。

 

Strategies in Asia Pacific

アジア市場戦略についての講義。特に日本については2コマを使って、現在の日本の価値観に影響を与えている歴史をざっくりと眺めたのち、現在の社会システムについてフレームワークを用いて分析を行うという講義がありました。その講義では、一つ一つの知識を見れば、日本人にとって真新しいものというものはなかったのですが、他の外国との比較の観点から、big pictureの視点で一つ一つの点となる知識が有機的に連鎖する繋がり方は、日本人の私からしても目から鱗ものであり、とても勉強になりました。

 

これらの授業を通じて感じたのは、日本は他の国にはない、強烈な二つの価値観を共有しているという点です。その二つというのが、「Collevtive Survival」、「Equity Outcome」だと思います。(一応、授業の内容を鵜呑みにするのではなく、自分なりの解釈を加え、以降論考をしています。)

 

まずCollective survival。なぜか知らないけど、とにかく日本人は「生き残ること」にこだわるのかもしれません。1000年続く企業だってあるわけですし、ビジネスの経営戦略にしても、事業の存続という観点が多く使われています。それゆえ、『生きている会社、死んでいる会社』でも取り上げられているように、一見すると社会的に淘汰されてもおかしくないような会社がいつまでも残り続けるというのは、ある種非常に日本的な現象なのかもしれません。

 

そしてもう一つが、Equity Outcome。これも人間は等しく平等であるべきで、それは機会も結果もそうであるべきという考え方が強いんじゃないかなと思います。これは、年功序列が一向になくならない(=社会の平等性を保つルールとして依然有用だと考えられている)点や、新卒一括採用が残っている点について説明が可能かと思います。

 

ではなぜこうした考え方が存在しているのかというと、歴史的な観点から紐解くことができそうです。本当にざっくりとではありますが、①集団作業が必要となる稲作を中心とした社会システム構築がなされていった点、②中国から儒教の影響を大きく受けた点、③何度か国を揺るがす脅威に晒された点、④何度か社会システムが変わりながらも、日本としての独立は保たれていた点が、これらの価値観を醸成する前提条件になったと言えます。

 

これらが形作る現在の社会システム(とはいっても、必ずしも必要十分条件ではありません。これら二つの共通価値観においても、異なる社会システムが出現する可能性は十分にあります)は、海外からすると非常に奇異な存在に見えるかもしれません。例えば、

 

①政府の債務が多いのに、ほとんどの債権者は日本国内の投資家(→これはイタリアやギリシャと大きく違う。愛国主義では説明しきれない何か別の価値観がある?→collective survival

 

②女性の社会進出が遅れている。でも日本人はそれをあまり問題と捉えていない(→戦後間もない家族観で作り上げられたシステムが未だに残っている)

 

などなどありました。いずれも授業においてコメントを求められ、理解してもらうのに大変苦慮した覚えがあります笑

 

以上がP3を通じて見えて来た日本の客観的なポジションです。とは言っても、それをネガティブに捉えるのではなく、むしろポジティブに捉えている印象があります。すなわち、

 

「自分たちとは違う考え方を持っている(協調的だし、あまり発言しない)。それでもうまく活用すればとんでもない力を発揮しそう(な気がする)」

 

ということになるのでしょうか。

 

Organizational behaviourの授業で読んだケースの中に面白いものがありました。そのケースでは、日本人とアメリカ人が同じグループの中で議論をするのですが、Interactionの頻度を見える化すると、見事に日本人はinteractiveではないし、話す人も非常に偏りがある。ただこれをうまくやって(発言を平等にするなど、組織のルールを作る)、日本人の発言を多くさせると、グループの生産性が向上した、というものです。この例からもわかるように、日本人は「Diversity」の中にあって、さらに「よくわからない奴ら」として見られているのかもしれません。

 

ただここで感じてしまうのが、「欧米ビジネスから見て日本というのは、Diversityを語る上での格好の良いターゲットなのではないか?」と言えなくもない、という点です。すなわち、INSEADお得意の「Diversityは素晴らしい」ということを語りたいがために、自分とは価値観の異なる日本人を取り上げて、その文化の違いを「消費」しているのではないか?という問題意識です。

 

どういうことか。それを非常に表しているのが私のOrganisational Behaviour1での経験です。直訳すると組織行動論なのですが、コア科目のうち1の方は、心理学の観点からより個としての人間にフォーカスを当て、どのような個人のパフォーマンスの上げ方があるのかということを主たる議論の対象としていました。そこで感じたのが「日本が消費される」経験です。

 

例えば、ハイコンテキストとローコンテキストのコミュニケーション。ハイコンテキストを表す文化の最たる例として日本が取り上げられ、どれほど日本がハイコンテキストな文化なのか、というのを議論しました。日本人である私は、「日本人の文化はどう違うのか?」という発言を何度も求められ、教授に求められるがままに、「ここが変だよ日本人」を演じました。

 

ただ、このハイコンテキストという考え。コンテキストをどこから見るかによって「ハイ」にも「ロー」にも捉えることができます。例えばヨーロッパにおいても、ラテン語を用いた非常にハイコンテキストなコミュニケーションが見られますし、日本においても非常に多くの説明を要するコミュニケーションの方法が取られることもある。要するに、ハイコンテキストやローコンテキストというのは、「見方次第で、どう捉えることもできる」というものなのです。

 

つまり、「ここが変だよ」というのが、実は別に変ではないということ。であればなぜ「変だよ」ということが殊更に強調されるのか?それはすなわち、「変であってほしい」という彼ら側からのまなざしがあるのではないか、ということです。

 

他にも、日本の顧客の文化的な違いに苦慮するという点に焦点が当てられたケースだったり、日本の電機メーカーが生み出した製品は日本の文化の賜物だというケースがあったり、何かケーススタディで日本の事例が取り上げられる際、「日本の文化は違うから」という前提条件が強調されているような気がしてなりません。だからこそ、日本は消費されているのではないか、という表現を用いたのです。

 

これらの経験を通じて自分が感じるのが、彼らの眼差しの中にある日本人を演じつつも、それを打ち破る戦いをしていかなければならない、ということです。これがまあ非常に難しいのですが。

 

長々と書いていきましたが、「相手からどう見られているのか」という視点を理解するにはとても良い経験だったように思えます。また、客観的に日本のポジションを理解するという点でも、P3は非常に良いものだったように思います。

 

P4は就職活動がメインになりますが、それでも面白そうな授業が目白押しなので、またここで紹介できればと思います。

 

では、では