海外MBAでダイバーシティについて考える

現在世界でもトップクラスの海外学生比率(97%)を占めるINSEADにて勉学に励んでいるのですが、ここで考えてしまうのがダイバーシティについてです。

 

ダイバーシティ(Diversity)という言葉は、日本社会でも取り上げられるほどポピュラーな言葉となってきました。「組織にもダイバーシティを持たせよう」「ダイバーシティ社会の実現に」なんていうフレーズが飛び交ってきたのも最近のことです。

 

ビジネススクールにおいては、特に欧州の学校で強みとして取り上げられています。大きな理由として、アメリカのビジネススクールと比較して(アメリカではアメリカ学生の比率が高いと言われています)、留学生比率が高い、また留学生の出身が多岐にわたっているということで、アメリカにない特徴としてあげているようです。

 

確かに、現在プログラムの前半部分を終えて感じるのは、INSEADが持つとてつもないダイバーシティの環境です。グループワークでは、国籍(イギリス、アメリカ、ザンビア、トルコ、日本)や職歴(コンサル、金融、エンジニア、社会起業家、マーケ)ともに全く異なるバックグラウンドの人たちと議論をしなければなりません。お互いに自己主張が強く、また各分野での経験もあることから、議論を一つにまとめるだけでも一苦労です。

 

またセクション(コア授業を共に受けるクラスのようなもの)では、それぞれが各自の経験や出身国の事情について発言します。このため、「このケースでは◯◯だ。だが私の国ではこれは通用しない、なぜなら△△〜」「**(国名、都市名)では、この事例と似ている例が##だ」と行ったようなコメントが飛び交います。加えて英語のアクセントも、それぞれ異なる訛り(インド、ブリティッシュは聞き辛い笑)が飛び交うので、とても刺激的な授業となっています。

 

こうして、半ば人工的に作られた「最高クラスの多様性空間」にいたわけなのですが、ここで考えてしまうのは、「ダイバーシティってなんだろう?」という素朴な疑問です。この社会的な時流として「ダイバーシティは良い」という考え方が流布しており、我々は得てして半ば当然のようにこの価値判断基準を受け入れているような気がします。しかし、そもそもこの考え方っていうのはなんなんだろう?どうしてこんな考え方が出てきたんだろう?と疑問が湧いてきたためです。

 

というのはなぜなら、このダイバーシティ空間が決して心地良い環境とは言えないからです。だってグループワークは意見が合わず議論が飛散することもあるし、セクションでは学生同士で「いやいやその考え違うっしょ」という議論バトルが勃発することもしばしば。決して快適な空間とは言えません。皆が賞賛するような「ダイバーシティは良い」という価値判断からはかけ離れた環境であって、いわばカオスのような状況なわけです。

 

 

じゃあダイバーシティはどういうメリットがあるのか?それは言い換えると、「多様な国籍・バックグラウンド・価値基準を認めれば」、何かプラスになることが起きるということになります。例えば何かを作り出す組織であればイノベーションが促進されるとか、より効率的に物事が進むとか、そういったことなのでしょうか。

 

ただ、ここまで考えると、果たしてそうなのか?と思ってしまいます。上記から言えば、究極のダイバーシティ空間というのはカオスですので、議論は飛散し、イノベーションが促進されたり効率的になったりといったダイバーシティのご利益をまるで感じません笑 

 

ところが、どうやらダイバーシティは組織の運営に良いということが科学的に証明されているようです。経営学者による組織開発の研究が進んでいて、しっかりとマネジメントされたダイバーシティ組織では、他のどの組織よりもイノベーションが促進される、ということが多くの研究で主張されているようです。つまり、どうやらこのカオスな状況に何かブレイクスルーがあるらしい、ということをこれは示唆しているわけです。

 

このカオスな環境について考えてみましょう。どうしてダイバーシティな環境というのは、こうも不快なのか?これをたどってみると、やはり自分の価値基準とは離れた価値基準となります。すなわち、自分が慣れ親しんだ価値基準ではない何かがそこにあって、そこから時折自分が培ってきた考え方を全否定するような考え方が真っ向勝負を仕掛けてくる、そんな状況なわけです。ただ、それが良いというわけですね。そこに組織を促す何かがあると。つまり、自分の考え方と、自分とはかけ離れた考え方とをうまく組み合わせることで、何か今まで考えることができなかったブレークスルーが生み出される、というところでしょうか。

 

ただ、これってとても難しい。なぜなら、自分の考え方は、自分が納得が行くものだからこそ発展してきたものです。自分に合わない考え方は吸収せず、どんどん排除していく傾向にあるもので、そうした自分に合わない考え方とぶつかった際には、受け入れられないと思うのが世の常です。ただ、そうではいけない、ちゃんと吸収しないといけないというのが上記で言うところの「しっかりとマネジメント」するということなのでしょうか。

 

そうした観点では、このカオスに慣れること、この不快な環境が「ダイバーシティは良い」の根源ということなのでしょう。非常に逆説的ですが、人々が不快に感じれば感じるほど、それは良い状態である、ということになります。

 

ここで、もう一つの疑問が浮上します。人々が不快な気分をすることでダイバーシティの良さが発揮されるのであれば、そもそも「ダイバーシティは良い」という考え方は果たして良いものなのか、なぜそこまでダイバーシティにこだわるのか、というものです。トートロジー的な疑問になってしまうのですが、言い換えればこの問いは次のようになります。

 

ダイバーシティは良い」という考え方を貫こうとすると、「ダイバーシティというカオスな環境」は避けられない、それはとても不快な環境です。ではその不快な環境を受け入れてでも、「ダイバーシティは良い」という考えに固執してメリットはあるのか?ということになります。

 

この問いに答えるために、ここで問題になっている環境とは反対の場合を考えてみましょう。すなわち、皆が単一的な考えを持ち、人々にとってとても心理的プレッシャーの少ない、快適な環境です。この環境の方が暮らしやすいんじゃないのか?と正直思ってしまいます。

 

ここで思い出されるのが、J・S・ミルの『自由論』です。この本では、多数者の専制という言葉を用いて現在の民主主義、ひいては組織について注意を促しています。この概念においては、民主主義の社会では、得票数などによって自他共に承認される「多数派」が、自分たちの意見を「真理」と見なしてしまうことで、意見の異なる人たちに対して、不寛容になる傾向がある、といいます。そしてこの傾向が続くと、多数派ではない意見を持つ人々は非難され、活躍の場を与えられなくなってしまう。そして、もしそうした少数派の中に、世界を変えるような独創的な意見や着想を持つ人がいたとしても、そうした考えが抑圧されてしまうために、社会の停滞につながってしまう、という点に警鐘を鳴らしています。

自由論 (光文社古典新訳文庫)

自由論 (光文社古典新訳文庫)

 

 

 

つまり、「皆が単一的な考えを持つ環境では社会の停滞に繋がる」ということがここでは言えそうです。単線的な進歩観で物事を考えるのも如何なものか、という疑問は残りますが、とりあえずここではそういうこととして受け止めたいと思います。ということは、やはり「単一的な考えを持つ環境はよくない」という消去法が成立します。すなわち、「ダイバーシティはよくない」という考えは否定されるので、「ダイバーシティは良い」と言わざるを得ない、という感じになるのでしょうか。

 

随分と回りくどく進めてきましたが、ここでわかってきたのは、どうやら我々はこのカオスを受け入れる他ないようです。ダイバーシティ環境を不快に感じるのは、それはダイバーシティ環境がダイバーシティ環境たり得ている証拠であるわけです。それを不快に思うことなく、むしろそれに耐えうるレジリエンスを持つことが大事、ということなのでしょうか。

 

では、では

 

INSEADの授業から、TOEFL/GMATについて振り返る

あけましておめでとうございます。来週からシンガポールで授業が始まるわけなのですが、現在は日本に滞在し、いつもと変わらぬ年末年始を過ごしています。日本に戻ってきて色々と留学生活を振り返り、改めて現在の経験の価値について考えています。その中で思うのは、英語についてです。

 

私は英語圏での滞在経験はおろか、留学経験もないいわゆる「純ドメ」に属する人間ですので、英語でのコミュニケーションについてはそれなりに苦労している印象です。各国のアクセントに苦戦したり、自分の言っていることがうまく伝わらずなんども聞き返されたりと、一般的な日本人学生が苦戦するところでしっかりと苦戦しているような気がします。

 

そこで思うのが、出願時にあれだけ勉強したTOEFL/GMATはなんだったのか、という疑問です。御多分に洩れず、英語のスコアメイキングには大きく苦労しましたし、逆に言えばそれなりに時間をかけて準備してきました。にも関わらず、まだまだ勉強が必要だなと感じている今日この頃であるわけです。とは言いながらも、TOEFL/GMATの勉強は現在のMBA生活を行う上でとても有益だったかなと思います。なぜかというとこの勉強と通じて得た観点を、そのまま学校で使っているような気がするからです。特にGMATについては、それぞれのセクションがうまく活きています。

 

AWAはそのままレポート書くのに使えています。勿論、ネイティブに比べると英作文の質(特にワードの選び方)は劣りますが、論理展開や文章構成などではうまく活用しているかなと思います。Verbalについても、Critical ReasoningやReading Comprehensionについてはケースを読む際や議論をする際のベースとなる考え方となっています。特にRCはケースでとても役に立ってます。Quantitativeについては、ファイナンスやビジネスエコノミクスの授業で必要最低限の知識として重要となってきます。

 

当初TOEFLやGMATの勉強を進める際には本当に苦しかったのですが、今振り返ると、MBAの予行演習をしていたような気がします。数年前にスコアメイキングをしていた自分に「やっててよかったよ!」と言ってやりたい気分です。笑

 

では、では

モビリティについて考える

www.chunichi.co.jp

 

新年あけましておめでとうございます。今年もMBAを中心にビジネスについて、そして読んだ本について、更新頻度高めにどんどん書いていこうと思いますので何卒よろしくお願いいたします。

 

さて新年一発目は特に学校関連ではなく、日本のビジネスについて。名古屋市で、トヨタソフトバンクが提携し自動運転実用に向けた実験を行なっていくことで合意したというニュース。新年早々とても興味深く見ました。

 

モビリティについては私が一番興味を持っている分野なのですが、ビジネススクールではそこまで注目されていない印象です。UBERのケースはよく授業でも取り上げられるのですが、ほとんどがUBERがどのようにして戦略的に現在のポジションを築き上げて言ったかという観点で議論がなされている一方で、あまりどのようにして自動運転などを結びつけてモビリティ社会を再構築していくかという点についてはあまり議論ができなかったイメージがありました。

 

一方で日本ではかなりモビリティ社会についての議論が進んでいる印象です。というのも自動車産業は日本にとってもとても重要な産業であり、大手自動車メーカーもかなり危機感を持って取り組んでいるような印象を受けます。

 

そうした中でのこのニュースですが、場所的には面白いのかなと。名古屋市はまあトヨタのお膝元ということであり、自動車社会にいち早く取り組んでいた場所でもあります。加えて、都会・郊外・田舎がミックスしていて良い。名古屋中心市街は日本でも有数の大都市ではありますが、郊外は完全な車社会だったりして、意外とアンバランスなところがある。そうしたところに、現在のテクノロジーを用いて問題解決ができるという点で、課題先進国ならぬ課題先進都市なのかもしれません。

 

 

AIなどのテクノロジーの分野では、アメリカや中国などに出遅れている印象があるのですが、日本初のモビリティ・ビジネスモデルが出てくるのを個人的には期待しています。

 

では、では

楠木建『好きなようにしてください』〜読書リレー(162)〜

 

好きなようにしてください―――たった一つの「仕事」の原則
 

 

ということで、東京に一旦里帰りしました。今は年明けの準備等をしながらゆっくり過ごしている状況です。

 

今年は200冊以上の本を読むことができました。去年に比べるとかなり数は減ってしまいました。残念。とはいっても、そのほとんどがMBAプログラムが始まる前に読んだもので、今年の前半に集中しているというアンバランスな状態です。まあ、致し方なし。仕事に直結するので、ビジネスの本が必然的に多くなるのですが、個人的にはやはり政治経済・歴史系の方が面白く読めます。まあ歴史が好きということもありますし、政治経済のどちらかというとマクロな視点が好みなのかもしれません。

 

おそらく今年最後の読書リレーですが、経営学者である楠木建氏の本です。Newspicksでのお悩み相談コーナーが元になっている本で、読者の悩みを楠木氏が答えて行くという形式になっています。ただこの本の面白いところは、悩み相談にとどまらない楠木氏の思考プロセスや考え方が垣間見れるところであり、あるお悩み相談では、当初の質問からはかなり逸脱したテーマで議論を進めているところなどもあり、とても興味深いです。

 

個人的に気になる議論は、環境決定論についてです。環境決定論というと聞きなれない言葉かもしれませんが、これは「どの環境に身を置くかによって、自分がどれだけ変化することができるか」という点を重視する考えで、この考えが強いと、「どこに行くか?」という問いが最優先事項になる一方で、「何をやるか?」「どうやるか?」という実践面の問いに対しては考えが至りづらいという難点があります。

 

著者は読者より、「大学に行くべきかベンチャーに行くべきか迷っている」「日本の大学に行くべきか海外の大学に行くべきかで迷っている」というような悩みを大量に受け取りますが、それらの多くを、「環境決定論に囚われている」とコメントして戒めています。何故ならば、環境が全ての人間を決めるわけではないからです。

 

この環境決定論に対する批判、非常に当たり前な観点であるはずです。しかしこれが多くの人を依然惹きつけてやまないのは、環境選択の自由が与えられているからかもしれません。この社会では、ある環境を選ぶ際に、「どうしてこの環境なのか?」という問いに答えなければならないようなシステムになっているからで、環境を選択する自由があるからこそ、その環境を選ぶ行為に対して動機付けが必要であり、必然的に「なぜその環境か」という問いに優先的に答えようとしてしまうのかもしれません。

 

例えば就職や大学院といった環境は、その入社や入試の際に、必ずといっていいほど「なぜここなのか?」という問いを受けます。その問いに対して多くの人は、「この環境を通じて成長できる」というストーリーを組み上げて行く必要があります。このストーリー作成の段階で、論理が逆転して、もともとは「〇〇したいからここに行く」が、「ここに行けば〇〇できる」という風に考えてしまう。そこには、「What to do」や「How to do」の視点が欠如してしまう、という問題が発生します。

 

 

環境決定論の最大の問題点は、何か思い通りに行かなかった場合、全てを環境のせいにしやすくなるということです。ロジックとしては簡単で、何か物事を成し遂げられなかった場合、「ここに行けば〇〇できる」と思って飛び込んだ環境だから、「やっぱりそうじゃなかった」と片付けてしまう。だからどんどん悪い方向に向かっていってしまうと言います。環境のせいにしてしまうと、そこでさらなる自己研磨は止まってしまうわけですので、そうならないように気をつけなければ、と思った一冊でした。

 

では、では

 

 

 

 

フォンテーヌブローを離れます

 

f:id:Dajili:20181228050027j:plain

 

ということで、今回の投稿はフランス出発前夜です。パッキングを終え、ノンカフェインのハーブティを飲みながら、この半年近くの時間を振り返っています。

 

あれ、卒業なの?と思う方、いいえ違います。INSEADはキャンパスがフランス(フォンテーヌブロー)・アブダビそしてシンガポールの3つ存在しており、学生はP3から自由にキャンパスを移動することができます(自由といっても、自己申告制で、場合によっては希望に叶わずいけない場合もある)。私の場合、P3からP5の卒業まで、ずっとシンガポールキャンパスに滞在することを選択したために、学生生活をスタートしたフランスのキャンパスを離れることになりました。

 

まだプログラムは半分すら終わっていないのですが、個人的に地理的に変わるということもあり、なんとなく一区切りついたような、そんな感じがしています。気分的には、2年制のプログラムのうち半分が終了し、翌年度は交換留学に行く、というような感じと一緒のような気分です。

 

かの有名な大前研一氏は、人間が変わるための方法は以下の3つしかないという名言を残しています。

 

1つ目は時間配分を変えること。

2つ目は住む場所を変えること。

3つ目は付き合う人を変えること。

 

よくよく考えると、シンガポールキャンパスへの移動はこれら全てを満たすことになりそうです。

 

まず2つ目について、これは一目瞭然でしょう。地理的に場所をヨーロッパの田舎からアジアの大都会に移すわけで、二つの意味で変化です。個人的には、東アジアには住んだことがあるのですが、東南アジアはないので、いい刺激になりそうです。

 

また3つ目について、これも付き合う人が変わります。なぜならINSEADの中の、「まだ合わない人々」と付き合うことになるからです。INSEADには、同タイミングで入学した学生が500人いますが、そのうちの300人がフォンテーヌブローで、200人がシンガポールで学生生活をスタートさせています。すなわち、フォンテーヌブローで学生生活を始めた私にとっては、シンガポールで学生生活を始めた同級生200人は見知らぬ人であり、そうした人たちと交流することができるのが、P3のキャンパスエクスチェンジ以降なのです。こうやって考えると、学校内でも新たな出会いがあり、とても期待ができます。

 

最後に1つ目について。今まではコア科目が中心でしたが、P3からは選択科目が中心になります。フランスでは、与えられた課題やコースに対して必死にこなしていくという傾向が強く、どのようにして降りかかってくる物事に対し効率的かつ柔軟に対応して行くかという、いわば受け身の姿勢が大半でした。しかしP3以降からは、選択科目が多くなり、課題の量が相対的に減ると言われており、自主的な活動が増えていきます。そうやって考えると、時間配分も変わってくることが予想されます。

 

ということで、自分を変えるための一つの機会として次の旅を楽しみにしているのですが、一方でどことなく後ろ髪を引かれるような、そんな気がしています。ここの環境は良くも悪くもビジネス世界とは隔離されていて、学業や自身の練磨に集中できていたので、さながら晴耕雨読の生活を行なっていたので、とてもその生活に満足していました。それを捨て去り、大都会の中に戻ってしまうのかという寂しさがあります。

 

また、ここは欧州の考え方を学ぶ上ではとても良い環境だったかと思います。空港からは遠いですが、それでも足を伸ばして近隣諸国に出かけることはできました。そうした中で、ヨーロッパとは何か、自分なりに考えることができてきたような気がします。

 

次はシンガポールです。自分が主戦場と決めているアジアに戻るわけですが、ここで得た知見を元に、さらに自己研磨に努めていきたいと思います。

 

では、では

見城徹『たった一人の熱狂』〜読書リレー(161)〜

 

たった一人の熱狂 (幻冬舎文庫)

たった一人の熱狂 (幻冬舎文庫)

 

 

久しぶりに読書リレー復活です。以前想定していた通り、プログラム中は本を読む時間は全くなく、プログラムから準備された大量のリーディングとディスカッションを消化するのに手一杯で、自分の好きなような読書ができていませんでした。ただ、休み期間ということで少しずつ本に手を伸ばしている、そんなような状態です。

 

まずは軽い読み物からということで、少し前に読みたかった本であるこの本から。幻冬舎を立ち上げた見城徹による仕事論。今のMBAでの学びの振り返りとともに、仕事に対するあるべき姿勢についてまとめられた本です。これが個人的には面白い。

 

ここで述べられているのは、圧倒的な「努力論」です。結果を出すためには全て努力で繋がっている。もし誰かと競争していて、自分が負けてしまったのであれば、それは自分の努力が足りなかったから、という考え方です。

 

この考え方は、グロースマインドセットに近いような気がします。グロースマインドセットとは、「自分の才能や能力は、経験や努力によって向上できる」というベースとなる考え方の元、挑戦や目標に対しポジティブに捉えていくというものです。

 

成果を出すには、圧倒的な努力しかない、でもその圧倒的な努力をするためには、本気になる必要があるといいます。

 

 

そして、現代の起業家に対しても、かなり辛口なコメントを残しています。特にスタートアップの理念についての視点が興味深い。起業を目指す若い人には、「社会貢献をしたい」「世の中を良くする」という理想を掲げる人がいますが、その考えには見城氏は非常に疑念的です。そうした理念や目標は一見すると美しいのですが、ではその目標はどうしたらたどり着けるかというと、結局資金を調達し、ビジネスとして成立しなければなりません。まずビジネスとして成立しなければ、理念は理念のままでしかありません。こうした視点から、見城氏は、「熱狂と圧倒的努力さえあれば、最初は理念なんてなくてもいい」と述べます。

 

INSEADは起業家養成学校とも言われており、学校側の見解によると(こう書くのはまだ私がこのデータに懐疑的だからです笑)卒業生の約5割がスタートアップ関連の仕事についているといいます。それだけ起業を推進している環境の中にいるので、私を含め多くの学生が起業家精神に徐々にインスパイアされていっているような気がします。

 

ただ何か違和感を感じていたのが、「はじめに理念ありき」というような考え方です。これはビジネススクールという環境上仕方のないことなのかもしれませんが、まずビジネスをどうするかという話以前に、「あなたの取り組むべき課題は何か?」という点にフォーカスしすぎているような気がします。そうした理念・理論が先にあり、実践がないがしろにされているのかもしれません。

 

忘れてはいけないのが、ここはあくまでも学校であり、ある種社会から隔離された場所にあるということ。そうした考えに触れうつつを抜かしていた自分に対し、「現実は甘くないよ」とお叱りを受けたような、そんな読後感でした。

 

では、では

 

MBA進学を費用対効果で考えることの間違い

日本のビジネス書や議論を見ていると、海外MBA進学をある種の自己投資として考える傾向が強いようです。仕事の第一線から離れ社会から隔離された場所で勉学に励むというからには、その勉強がどれだけリターンを生み出すのかという点について注目しているような気がします。

 

よくよく考えれば、そうしたMBA選びの基準は、日本にとどまらない気がします。実際海外のサイトが提供するMBAランキングも、いずれも「卒業後の平均給与」を重視しています。すなわち、投資した費用(学費+生活費+仕事をしなかったことによって失ったいわゆるサンクコスト)に対し、どれくらいのリターンが見込まれるかという観点です。

 

学校でも、そうした考えが垣間見得ます。例えばP1のFinancial Market and Valuationの授業において、フリーキャッシュフローの考え方をMBAの投資で考えるという事例がありました。教授はそれを用いて、USスクールとINSEADの学費と給与を比較して、INSEADの方が将来的なリターンは良い!ということを主張したかったのでしょうが、個人的には印象に残っています。そして、学校側でもそうしたランキングを重視するあまり、給与の高い就職先については就職支援の手厚いサポートを強化しているような傾向が見られます。

 

ただ、P1P2を終えて思うのが、こうした考え方に対する疑心です。すなわち、「ここの経験を費用対効果で考えていいのか」という疑問です。

 

なぜこんな考えを思いつくようになったのか、きっかけは二つあります。一つ目は、授業で得られる知識と、学費という形をとる「費用」の関係性についてです。この考えをベースにしてしまうと、全ての学校のアクティビティについて費用対効果で考えてしまうことになります。特に当てはめやすいのが授業で、この費用対効果を突き詰めて考えれば、一日あたり、一つの授業あたりいくらという形で、かなり正確に費用計算をすることができます。そして、「この授業はとてもつまらないからだめだ」「学費を返して欲しい」というような意見が散見されます。

 

そして二つ目は将来のキャリアについてです。学校の雰囲気として、費用対効果を重視するあまり、MBAという学位を最大限活用できる(=給与という面で)ような就職先を探してしまう傾向が見受けられます。それは必然的に、多くの学生をコンサル・投資銀行といったいわゆる花形就職先に向かわせることになります。一年制という短いプログラムによって学生に物理的に考える時間がないため、どうしてもそうした就職先に注目が集まっているような印象を受けます。

 

ただ、これら二つとも、あまり本質を捉えていないんじゃないかなと振り返り始めている今日この頃です。一つ目については、そもそも各個人の学びというものはお金で換算できないものです。環境で学びの質に影響が出るのであれば、全ての優秀な人材はトップオブトップの機関から排出されていることになりますが、そうではありません。学びは仕事ではなく、あくまでもお金を払ってきている趣味である以上、どれくらい没入するか、どれくらい好きなのかによって学びの質に大きく差が出るのは致し方ないことだと思います。

 

そして二つ目について。当たり前ですが、給与が高いことが必ずしもそれぞれの学生にとってベストな選択であるとは思えません。それぞれの学生にとってやりたいことは異なるわけであり、せっかくのキャリアトランジションの機会を、そうした金銭的な面で優先してしまう構図は、あまりよろしくないのかなと思います。

 

ここまで半分をすぎて思うのは、MBAの価値は「時間」にあると思います。やはり、仕事をしている方が忙しい。仕事の方がプレッシャーもあるし成果を求められる。それは給与という対価を得られているからこそ生み出されるシビアな環境であり、プロフェッショナルな態度を求められるという点で、学校の世界とは全く異なります。

 

MBAと雖も、そこは学校。学びの場です。自分からお金を払って学んでいるわけで、自分がお金をもらって学んでいるというわけではありません(社費の学生は少し異なりますが…)。シビアな環境から一歩退き、自分の仕事に対する考え方を振り返り、新しい学びを形成していく、そんな場であるわけです。実ビジネスの世界から離れているという点においては、ある種ここで行われる知識習得は趣味の世界であるわけです。そういう意味では、MBAは、強制的に時間を作り出し、自らの学びを深めることができる場所、言い換えれば「学びに充てる時間を作る正当な理由(そして正当な理由であるからこそ、社会にも何の問題もなく復帰できる)」になるわけです。

 

それは言い換えれば、MBAというのは、究極の無駄遣いであり、究極の贅沢であるわけです。だからこそ、そんな短期的に効果が得られるというわけではないものであり、自分の人生を豊かにする、そういう風にざっくりと考えておいた方が良いのではないかと思うようになっています。こういう意味では、費用対効果でここの経験を考えるのは、とてももったいないことなのかもしれません。

 

では、では