海外MBAでダイバーシティについて考える

現在世界でもトップクラスの海外学生比率(97%)を占めるINSEADにて勉学に励んでいるのですが、ここで考えてしまうのがダイバーシティについてです。

 

ダイバーシティ(Diversity)という言葉は、日本社会でも取り上げられるほどポピュラーな言葉となってきました。「組織にもダイバーシティを持たせよう」「ダイバーシティ社会の実現に」なんていうフレーズが飛び交ってきたのも最近のことです。

 

ビジネススクールにおいては、特に欧州の学校で強みとして取り上げられています。大きな理由として、アメリカのビジネススクールと比較して(アメリカではアメリカ学生の比率が高いと言われています)、留学生比率が高い、また留学生の出身が多岐にわたっているということで、アメリカにない特徴としてあげているようです。

 

確かに、現在プログラムの前半部分を終えて感じるのは、INSEADが持つとてつもないダイバーシティの環境です。グループワークでは、国籍(イギリス、アメリカ、ザンビア、トルコ、日本)や職歴(コンサル、金融、エンジニア、社会起業家、マーケ)ともに全く異なるバックグラウンドの人たちと議論をしなければなりません。お互いに自己主張が強く、また各分野での経験もあることから、議論を一つにまとめるだけでも一苦労です。

 

またセクション(コア授業を共に受けるクラスのようなもの)では、それぞれが各自の経験や出身国の事情について発言します。このため、「このケースでは◯◯だ。だが私の国ではこれは通用しない、なぜなら△△〜」「**(国名、都市名)では、この事例と似ている例が##だ」と行ったようなコメントが飛び交います。加えて英語のアクセントも、それぞれ異なる訛り(インド、ブリティッシュは聞き辛い笑)が飛び交うので、とても刺激的な授業となっています。

 

こうして、半ば人工的に作られた「最高クラスの多様性空間」にいたわけなのですが、ここで考えてしまうのは、「ダイバーシティってなんだろう?」という素朴な疑問です。この社会的な時流として「ダイバーシティは良い」という考え方が流布しており、我々は得てして半ば当然のようにこの価値判断基準を受け入れているような気がします。しかし、そもそもこの考え方っていうのはなんなんだろう?どうしてこんな考え方が出てきたんだろう?と疑問が湧いてきたためです。

 

というのはなぜなら、このダイバーシティ空間が決して心地良い環境とは言えないからです。だってグループワークは意見が合わず議論が飛散することもあるし、セクションでは学生同士で「いやいやその考え違うっしょ」という議論バトルが勃発することもしばしば。決して快適な空間とは言えません。皆が賞賛するような「ダイバーシティは良い」という価値判断からはかけ離れた環境であって、いわばカオスのような状況なわけです。

 

 

じゃあダイバーシティはどういうメリットがあるのか?それは言い換えると、「多様な国籍・バックグラウンド・価値基準を認めれば」、何かプラスになることが起きるということになります。例えば何かを作り出す組織であればイノベーションが促進されるとか、より効率的に物事が進むとか、そういったことなのでしょうか。

 

ただ、ここまで考えると、果たしてそうなのか?と思ってしまいます。上記から言えば、究極のダイバーシティ空間というのはカオスですので、議論は飛散し、イノベーションが促進されたり効率的になったりといったダイバーシティのご利益をまるで感じません笑 

 

ところが、どうやらダイバーシティは組織の運営に良いということが科学的に証明されているようです。経営学者による組織開発の研究が進んでいて、しっかりとマネジメントされたダイバーシティ組織では、他のどの組織よりもイノベーションが促進される、ということが多くの研究で主張されているようです。つまり、どうやらこのカオスな状況に何かブレイクスルーがあるらしい、ということをこれは示唆しているわけです。

 

このカオスな環境について考えてみましょう。どうしてダイバーシティな環境というのは、こうも不快なのか?これをたどってみると、やはり自分の価値基準とは離れた価値基準となります。すなわち、自分が慣れ親しんだ価値基準ではない何かがそこにあって、そこから時折自分が培ってきた考え方を全否定するような考え方が真っ向勝負を仕掛けてくる、そんな状況なわけです。ただ、それが良いというわけですね。そこに組織を促す何かがあると。つまり、自分の考え方と、自分とはかけ離れた考え方とをうまく組み合わせることで、何か今まで考えることができなかったブレークスルーが生み出される、というところでしょうか。

 

ただ、これってとても難しい。なぜなら、自分の考え方は、自分が納得が行くものだからこそ発展してきたものです。自分に合わない考え方は吸収せず、どんどん排除していく傾向にあるもので、そうした自分に合わない考え方とぶつかった際には、受け入れられないと思うのが世の常です。ただ、そうではいけない、ちゃんと吸収しないといけないというのが上記で言うところの「しっかりとマネジメント」するということなのでしょうか。

 

そうした観点では、このカオスに慣れること、この不快な環境が「ダイバーシティは良い」の根源ということなのでしょう。非常に逆説的ですが、人々が不快に感じれば感じるほど、それは良い状態である、ということになります。

 

ここで、もう一つの疑問が浮上します。人々が不快な気分をすることでダイバーシティの良さが発揮されるのであれば、そもそも「ダイバーシティは良い」という考え方は果たして良いものなのか、なぜそこまでダイバーシティにこだわるのか、というものです。トートロジー的な疑問になってしまうのですが、言い換えればこの問いは次のようになります。

 

ダイバーシティは良い」という考え方を貫こうとすると、「ダイバーシティというカオスな環境」は避けられない、それはとても不快な環境です。ではその不快な環境を受け入れてでも、「ダイバーシティは良い」という考えに固執してメリットはあるのか?ということになります。

 

この問いに答えるために、ここで問題になっている環境とは反対の場合を考えてみましょう。すなわち、皆が単一的な考えを持ち、人々にとってとても心理的プレッシャーの少ない、快適な環境です。この環境の方が暮らしやすいんじゃないのか?と正直思ってしまいます。

 

ここで思い出されるのが、J・S・ミルの『自由論』です。この本では、多数者の専制という言葉を用いて現在の民主主義、ひいては組織について注意を促しています。この概念においては、民主主義の社会では、得票数などによって自他共に承認される「多数派」が、自分たちの意見を「真理」と見なしてしまうことで、意見の異なる人たちに対して、不寛容になる傾向がある、といいます。そしてこの傾向が続くと、多数派ではない意見を持つ人々は非難され、活躍の場を与えられなくなってしまう。そして、もしそうした少数派の中に、世界を変えるような独創的な意見や着想を持つ人がいたとしても、そうした考えが抑圧されてしまうために、社会の停滞につながってしまう、という点に警鐘を鳴らしています。

自由論 (光文社古典新訳文庫)

自由論 (光文社古典新訳文庫)

 

 

 

つまり、「皆が単一的な考えを持つ環境では社会の停滞に繋がる」ということがここでは言えそうです。単線的な進歩観で物事を考えるのも如何なものか、という疑問は残りますが、とりあえずここではそういうこととして受け止めたいと思います。ということは、やはり「単一的な考えを持つ環境はよくない」という消去法が成立します。すなわち、「ダイバーシティはよくない」という考えは否定されるので、「ダイバーシティは良い」と言わざるを得ない、という感じになるのでしょうか。

 

随分と回りくどく進めてきましたが、ここでわかってきたのは、どうやら我々はこのカオスを受け入れる他ないようです。ダイバーシティ環境を不快に感じるのは、それはダイバーシティ環境がダイバーシティ環境たり得ている証拠であるわけです。それを不快に思うことなく、むしろそれに耐えうるレジリエンスを持つことが大事、ということなのでしょうか。

 

では、では