30歳過ぎた転職とUnlearning(アンラーニング:学習棄却)について
最近、Unlearning(アンラーニング)という言葉をよく聞くようになった。
きっかけは、私が現在の会社に転職して、社内の色々な人と知り合うようになってからだった。「中途組はアンラーニングに苦労するから頑張ってね。」「前職のナレッジを使うと同時に、アンラーニングしていく必要あるよね。」
私はMBA留学を経て、31歳で現在の会社に転職している。まだ経験は浅いが、業界も異なるため、前職における仕事のやり方と大きな違いを感じている。そしてその違いに時として不快感を感じ、自分をどのように合わせていけばいいかわからなくなる時がある。どのようにその違いを乗り越えるか、色々な方にアドバイスを頂く中で、「アンラーニング」という言葉をよく耳にするようになった。
色々調べてみると、この言葉意外と奥が深いことに気がついた。なぜならこのキーワードが、個人のキャリア・トランジションや組織のトランスフォーメーションにも重要な概念なんじゃないかと思えてきたからだ。
少しこの言葉についての考えをまとめてみたい。
目次
Unlearning(アンラーニング)とは何か
そもそもUnlearning(アンラーニング)とはどういう意味なのか。Learningという言葉は、学習という意味だ。それ反対の意味を持つ「Un」がつくことで、学習と反対の意味を有するのかもしれない。
この言葉の意味に疎かった私は、アンラーニングという言葉を調べて見た。
「アンラーニング」(unlearning)とは、いったん学んだ知識や既存の価値観を批判的思考によって意識的に棄て去り、新たに学び直すこと。*1
このコンテキストだと、前職で学んだ知識や価値観を意識的に捨てる、それがアンラーニングということになるらしい。
アンラーニングの対象
ただし、この言葉、もう少し具体的にいうと、主に二つを対象としているといえる。
- スキルセットのアンラーニング
これは比較的想像しやすい。具体的に知識を有している、あるいは何かができるという能力について、過去と現在の使われかたの微妙な違いを認識し、過去自分が培ってきた能力を微調整する必要がある、ということになろう。
これは、自動車を運転するという例えで考えるとわかりやすい。自動車を運転するにあたり、我々は免許を取得するために自動車学校で運転の仕方を学ぶ。その時運転するのは大抵は小型の自動車である。そして、多くはマニュアル車の免許を取得する。ただし、実際に社会に出ると、自動車は小型に限らないし、車はほとんどがオートマティック車である。小型の車と大型の車では、車幅が異なることから曲がる時に異なったタイミングでハンドルを切る必要があるし、ミラーの位置や見える範囲内が異なることから、違う確認の仕方をしなければならない。小型車と大型車については、運転とは言ってもそのスキルが異なるといえる。
これが仕事でも言える。私の職場で照らし合わせれば、エクセルとパワポについて、必要とされるショートカットやフォーマットが違ったり、コミュニケーションにおいても、相手が何を求めているかが過去と現在で大きく異なることから、そこも調整が求められる。
- マインドセットのアンラーニング
もう一つが、マインドセットだ。マインドセットとは、経験や教育などから個々人について形成される思考スタイルや価値判断で、ことアンラーニングの文脈においては、どのように仕事を進めていくかという価値判断基準に関わってくる。
これは、スキルセット以上に形式化されていないため、表現することが難しい。例えば、チーム内での上司との接し方や、自分の作業の進め方などが挙げられる。職場によってはこれらが明文化されているところもあるのだが、大抵は職場で大多数の人が慣れ親しんだスタイルをそのまま全体で流用しているというケースが多いのではないだろうか。
アンラーニングとトランジション
このアンラーニングという言葉、そこまで新しい言葉では無い。アンラーニングは早くから経営学者の研究の対象になっていて、例えば『知識創造企業』の著者で知られる野中郁次郎と竹中弘高は1985年という早い段階で、組織のアンラーニングに着目し、どのようにイノベーションと生産性向上の双方を両立させているかという実証研究を行なっている。*2また、日本国内でも、グーグルでUnlearningと検索すれば、それなりの数の研究の数がある。
しかし一方で、個人のアンラーニングについては実証研究が少ないという*3。「アンラーニングとは何かという定義において研究者間で合意に達しておらず*4、それが個人のアンラーニング経験についての研究を少なくしているという。
確かに、アンラーニングは、①対象(何をアンラーニングするか)そして②目標(アンラーニングして何になるか)という二つの点が曖昧で、それが研究の世界において疎まれる理由なのかもしれない。そもそも、ビジネスの世界で言われるような「スキルセット」だったり、「マインドセット」が、大抵の場合客観的に判断できるようなものでは無いため、再現性を求めるサイエンスからは疎まれるのはある意味では自然の流れなのかもしれない。
ただし、一方でリーダーシップ研究からは、アンラーニングに近い考え方を参照することができる。その一つに、トランジションがある。
トランジション ――人生の転機を活かすために (フェニックスシリーズ)
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- 発売日: 2014/03/15
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トランジションとは、William Bridgesが提唱しているリーダーシップ論のひとつで、「いかにして人はリーダーになっていくのか」という問題意識から、どのようにリーダーシップを育てることができるかという問いに答えを提供している。このトランジションはリーダーシップに端を発し、人はどのように変わるのか?という問いに広く答えることができるため、かなり多くの場面で使われている。
法則1:トランジションのはじめのころは、新しいやり方であっても、昔の活動に戻っている法則2:すべてのトランジションは何かの「終わり」から始まる法則3:自分自身の「終わり」のスタイルを理解することは有益だが、誰でも心のどこかでは、人生がそのスタイルに左右されているという考えに抵抗する法則4:まず何かの「終わり」があり、次に「始まり」がある。そして、その間に重要な空白ないし休養期間が入る
なぜUnlearning(アンラーニング)が重要か
では、ここまで定義が曖昧で、そして実践には労苦が伴うアンラーニングが重要なのか? 私は以下の点で重要だと考える。
- 技術の陳腐化のスピードが早くなっている(それに伴い、スキルの陳腐化も早くなっている)
よく言われていることだが、現在は技術の普及のスピードが非常に早くなっている。下の図はテクノロジーの普及率を時系列で表したものですが、電話や自動車・ラジオが発明されてから、普及するのに50年近くの歳月がかかっている一方、近年のテクノロジー、例えばPCやインターネットは、10−20年という比較的短いスパンで爆発的に普及している。
ここから容易に想像できるのが、今後も多くのテクノロジーが、比較的短いスパンで普及する、ということ。この傾向はどんどん加速していくだろう。
こうした傾向に対し、人間も対応してかなければならない。具体的には、次々と新しい技術が導入されることにより、新しいシステム・組織・仕事のやり方を継続的に学ぶ必要がある。その際に、どうしても以前の経験や知見が邪魔をしてしまうことがある。それをアンラーニングによって解きほぐし、新しい学びへとつなげていく必要がある。そうした意味で、アンラーニングの場面と意義が大きくなっていると言えるのである。
- 人生100年時代において、より長いスパンでのキャリア形成が求められる
これも一般論ではあるが、健康年齢が長期化と少子高齢化によって、現状の社会システムが成り立たなくなり、現役と呼ばれる年齢が長くなることが予想されている。これに伴って、より長期的なスパンでキャリアを考える必要がある。
この議論を広めたのが、リンダグラットン著『LIFE SHIFT ライフ・シフト』だろう。こうした長いスパンのキャリアにおいては、専門家と一般的に呼ばれる人々ですら、1つのことを掘り下げるだけでは食べられなくなってきて、次々と新しい分野を掘り下げる「連続専門家」になる必要があると言われている。
そうなると、何か一つのことに固執するのではなく、新しい学びを連続的に行なっていく必要がある。その中には、過去の学びを解きほぐして、新しいものへとアップデートする必要に迫られるものも出てくるであろう。こうした意味では、アンラーニングの機会が劇的に増えるわけである。
以上の二点から導き出されるのは、生涯を通じたアンラーニング機会の質的・量的増加である。10代や20代前半の、大学や最初の職場で学んだ基礎的なスキルを、連続的にアップデートしていく必要がある。
どうやってUnlearning(アンラーニング)を実践するのか
さて、一番大事な部分である。どう実践するのか?これについては正直なところ、まだ解を持ち合わせていない。これについてこれから色々と考えていきたいと思っている。
このアンラーニングを調べていく中で、一つ面白いものを見つけた。スターウォーズのヨーダが、アンラーニングについて面白いことを言っているのだ。 エピソード5、ルークスカイウォーカーがヨーダの元で修行をしている際、フォースの力を信じられないスカイウォーカーに対しYodaがこういうのである。
「Only different in your mind. You must unlearn what you have learned」
「There is no try」
Master Yoda Quote (TRY) | Star Wars V - The Empire Strikes Back (1980)
つまり、すでに外の環境はそこに存在している。変わっていないのは個々人の考えだけである。そして、「考えを変えることを試す」という段階は存在せず、「やるかやらないか」であるという。これがYodaの教えだ。うむうむ、なるほど。
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以上アンラーンに関する考えをまとめてみた。特に実践については内容が浅くなってしまったが、研究が少ない、また定義が曖昧ということからある種仕方がないかもしれない。今後自分の体験を交えながら、ここについての考察を深めていければと思う。
では、では
成長できる会社って何だろう?
久しぶりの投稿になります。転職してから仕事も一応は落ち着き、徐々にここでのアウトプットも増やしていきたいと思います。
さて、先日「圧倒的成長ができる外資系企業」というランキングを見かけました。これは、OpenWorkというサイトに投稿された外資系企業への社員クチコミを元に、「20代成長環境」と「社員の士気」の評価点を集計したものでランキングを作成したものだということです。詳細は以下リンクを参照ください。
https://www.vorkers.com/hatarakigai/vol_65
このランキングを見ると面白いのが、上位3社を戦略系コンサルティング会社が占めているということです。マッキンゼー、ATカーニー、BCGが上位3社となっており、他にもローランドベルガー、アクセンチュア(Strategyに特化しているのかは謎ですが)がランクインしています。個人的にこの中にベインがないのが不思議で仕方ありませんが、何れにしてもコンサルティング業界=成長ができる、というイメージと実績が形成されているということが言えそうです。
よく言われていることとして、コンサルティング業界は、「異なる業界のプロジェクトを短期間のサイクルで回していくため、成長のスピードが早い」というものがあります。
ただ、コンサルティングの内部の人間として疑問に思うのは、ここでいうところの「成長できる」というのは一体どういうことなんだろう?ということです。この「成長」という点について、ちょっと冷静に、ロジカルに考えて見ましょう。
まず「成長」という言葉を定義して見ましょう。成長というのは「今までできなかった何かができるようになる」ということと言えそうです。これは大筋は間違っていないでしょう。つまり、今までできなかった何かが、仕事を通じてできるようになる。これが成長というものです。
ただ、じゃあそれができるようになったからといって何がしたいのか?これに対する明確な答えを持っている人はそこまでいないように思います。そのスキルを身につけたとして、何がしたいのか?ここをはっきりさせる必要があります。また、かりに明確な答えがあったとして、そのキャリアを経験することによる成長が、本当に役に立つのか?という疑問もあります。
つまりここから言えることは、キャリアにおける成長というのは、とても曖昧なものでしか無いのです。何のための成長かわからない、そもそも成長そのものって何?という二つの大きな疑問がある以上、成長するというのは万人に共通する体験として成立しないと言えます。
このように、このブログを通じてキャリアについても考えていきたいと思います。
ではでは
帰国、そして次のステップに
6月末以来、長い休暇期間をいただいておりました。7月にINSEAD MBAを卒業し、日本に帰ってきました。
キャリアのトランジションとしての色が強いINSEADにおいて、私も大多数にもれず、戦略コンサルからオファーを貰うことができました。卒業式が終わった後日本に戻り充電を済ませたのち、9月から働き始めています。
INSEADを卒業して早2ヶ月経ちますが、改めて意義深い一年だったなと振り返っています。帰国してから周囲から「MBAどうだった?」という質問をよく受けますし、中には、「自分も進学を考えているんだけど」という相談もよく受けるようになりました。そこで私が一貫してコメントしているのは、非常に良い経験だった、ということです。
MBAは不要だ、MBAではリーダーシップは育たない、勉強の内容は大したことないなどなど、色々な議論が飛び交っています。しかしながら、実際に行ってみた身としては、これらの議論はそれこそ机上のものであり、実際に経験するとこれらの議論が非常に空虚であることがわかります。ことINSEADにおいては、臨場感かつ肌身を持って、世界各国のビジネスを学ぶことができます。異なる2〜3のロケーションに滞在し、2ヶ月単位でやることがガラッと変わり、異なるバックグラウンドのビジネスパーソンと議論を交わし、交友を深めることができるのは、少なくとも今までの人生になかったことですし、これからもなかなか味わえないものなのかなと思っています。
そうした中で、卒業後私は日本に戻るという決断をしました。ここで得た知識はある意味国際運転免許証のようなもので、どこでも車を運転できるような状態。その気になれば、海外で働くという選択肢もありました。それでも日本を選んだのは、やはりこの課題山積みの日本に貢献したいという想いが強かったんじゃないのかなと考えています。
9月から心機一転、戦略コンサルタントとしてキャリアを進めます。今まで経験したことのない世界で、新しい学びの連続ではありますが、30過ぎても学ぶことがあるというのは逆に嬉しいことで、日々成長を感じながらいければなと。
ということでこのブログも、MBA生活のレポートから、MBA×戦略コンサルという月並みバックグラウンドなビジネスパーソンの日々の備忘録という形で、仕事には関係ない、読んだ本・雑誌・記事をひたすらまとめていくというものにしていこうと思っています。
ということでゆるくしぶとくやっていこうと思いますんで、引き続きお付き合いください。
では、では
働く世帯の悩みは社会構造が原因かもしれない〜中野円佳『なぜ共働きも専業もしんどいのか 主婦がいないと回らない構造』*読書リレー(163)*〜
前回の記事で、日本の社会問題、特に女性の社会進出について書きましたが、非常にタイムリーなタイミングでこの本が出たので思わず即ポチ。一気に読んでしまいました。
なぜ共働きも専業もしんどいのか 主婦がいないと回らない構造 (PHP新書)
- 作者: 中野円佳
- 出版社/メーカー: PHP研究所
- 発売日: 2019/06/15
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この本を読んでいて、正直なところ非常に悲しい気持ちになりました。これから日本で仕事をするという選択をした家族持ちの我々。海外駐在と海外留学の生活を終え、計2年半という時間ののちに日本に戻るわけなのですが、これから待ち受ける子持ち共働きの「しんどさ」がこの本にありありと描かれており、憂鬱になってしまいました。
この本では現代における共働き世帯、専業主婦世帯それぞれの状況について社会学のアプローチから分析を試みています。様々な世帯へのインタビューから日本全体の政策レベルの分析に至るまで、ミクロにマクロに縦横無尽の本となっており、とても興味深い一冊となっています。
前回の記事でも取り上げたように、日本では女性の活躍が叫ばれています。しかしながら、一向にそれが成果が上がらないのは、専業主婦を前提とした社会システムが作り上げられており、社会構造が変わってもなおその社会システムが、以前の社会構造を前提としたままにアップデートされていないためだと指摘。現代においては、ゴースト化した社会システムが人々の家族観・社会観も前近代のものへと引き戻してしまうという悪循環が発生してしまっており、「しんどい」の元凶になっている。現在では、テクノロジーの発展が局所的な改善をもたらしてはいるものの、政策レベルでの変革が必要。というのが本書のおおよその主旨になるかと思います。
具体的にいうと、次の通りで悪循環が発生しています。
①従来は、夫はサラリーマン・妻は専業主婦という社会構造が成り立っていました。企業もゆとりがあり、男性を正規雇用で雇い、終身雇用・年功序列という非常に安定的な雇用システムのもとで保護してきました。こうした中で、長時間勤務や転勤といった、企業内の制度だけでなく、子育てや教育といった企業外の暗黙の了解までもが、「専業主婦のサポート」を前提として設計されていった
②現在、女性の社会進出・活躍が叫ばれ、多くの企業が総合職で女性を雇い始めてきた。しかしながら、それは単純に、「女性を今までの男性と同様に働かせる」というものであった。「専業主婦のサポート」を前提として設計された現在のシステムでは、共働き世帯は想定されておらず、様々な弊害が生じてしまう。例えば先日、少し文脈は異なるが、育休明けに転勤を命じられ、断ったら退職に追いやられた、と夫の状況を嘆いたカネカのケースが話題になりましたが、これは、転勤が専業主婦のサポートを前提としていることに起因しているともいえるでしょう。
③そうした中で、共働きでは日本社会で生活することが困難となり、どちらかが会社を退職して専業になるケースが出てくる。これが増えてくると、企業側も「女性はどうせやめるのだから、研修や配属は男性とは異なる形で行おう」という統計的差別が行われ始める。例えば、先日あった東京歯科大の入学試験における女性差別は、その理由について「女性は結婚・出産でやめてしまうので、男性医師の比率を増やしたかった」と平然と語られていた。
④専業になると、結局妻の方が稼ぎが減ってしまう。このため、「私が専業で主婦を行うのも当然」というアイデンティティが芽生えてしまう。翻って夫の方も、「自分の方が稼いでいるのだから、妻が専業で家事をやってもらうのは仕方ない」という考えに落ち着いてしまう。
⑤そして、新しいアイデンティティを付与された女性は、専業主婦に活路を見出し、さらに自分で自分を追い込んでしまう。家事代行には、「自分の仕事を他に委託するとは情けない」として利用せず、食事も1汁3菜自分が料理しなければという「神話」に翻弄されるようになる。一方で夫も、自分を育ててくれた母親が専業主婦であることが多かったことからその像を妻にも当てはめ、家のことはなんでも妻にやらせようとする。夫の家事における時間が依然としてOECD内で最低レベルなのは、こうした認識がある。
繰り返しになりますが、こうした悪循環を断つために、社会システムをアップデートする、具体的には雇用制度をもう少し柔軟にすることで様々な働き方のニーズに応えていくべき、というのが本書の主張です。
この本を読んだ時、「これはまさに自分だ」と思いました。なぜなら、長女が生まれてから今に至るまでの間、家族とキャリアを巡って色々と考えてきたことが、この中に含まれていたからです。というのも、子育てを巡り、夫として、また育休中の妻として、様々な葛藤や衝突や悩みがあったのですが、それらと同様のストーリーが、この本の中のインタビューでも描かれているのです。
例えば海外赴任の話。私はMBA進学の前に前職で中国への海外赴任を命じられ、1年半駐在していた経験があります。ここでもまさに、「転勤」に対する社会的な考え方をまざまざと知ることになりました。部署の人は非常に理解のある人たちで、「結婚したてなのに申し訳ないが、事業の拡大のためにぜひ中国で頑張って欲しい」と背中を押してくれましたが、駐在の制度には思わず首を傾げたくなりました。というのも、その海外駐在の制度設計が、どう考えても共働き世帯に合わせたものとは思えなかったからです。例えば帯同の話。原則帯同者は現地で仕事をすることができません。帯同ビザという形で、現地で就業は制限されてしまいます。すなわち、海外駐在を命じられた場合、妻が会社を退職して専業主婦になって現地に帯同するか、それとも夫が単身でいくことのどちらかを選ばなければならないのです。
幸運なことに同タイミングで妻の妊娠がわかり、出産後に育休を利用して中国まできてくれました。大気汚染などが心配される中、言葉もわからない環境で家族で一緒にいるという決断をしてくれた妻には感謝しかありませんが、実は駐在中お互いにアイデンティティの危機を感じました。というのも、夫=仕事、妻=育休・家事という明確な立場の違いがあり、加えて中国という慣れない土地の中で妻はますます家事にコミットしていくという構図の中で、知らず知らずのうちに、自分の中で「自分は仕事をしているのだし、家事を手伝うと妻の存在意義にも抵触するだろうから」という気持ちが芽生えるようになりました。その顕著な例が、洗い物。駐在前までは自分で掃除洗濯洗い物等の家事を平等に行なっている自負がありましたが、気がつけば食事の洗い物を妻に任せる、そしてその任せるという行為が当たり前になっていくという状況になっていきました。これはまずいということで認識を変えましたが、あの時の心情はまさにこの本で描かれている悪循環がもたらす前近代的アイデンティティの回帰現象でした。
おそらく私も含めた30歳前後というのは、システムと認識の違いに翻弄される世代なのでしょう。というのも、幼い頃の家庭の原風景と、今の現状が似ているようで違うために、ある種の錯覚状態に陥り、余計に適応ができなくなっているためです。私の世代というのは、母親が専業主婦であるケースが多く、そうした専業主婦の母親を見て育ってきました。一方で女性の共働きが叫ばれているため、専業主婦という幼き頃の家族の原風景・求めるべき家族像と、今社会から求められる「共働き世帯」という家族像を二つとも求めようとするあまりに、社会システムのひずみの中にどっぷりと浸かってしまっている、ということになるわけです。
ただし、ここで一番の問題なのが、この社会システムというのが、様々な点で相互補完的に働きあっていて、この共働き世帯の悩みを解消するために局所的に何かを変えることはできない、ということです。現在この問題を解消すべく、またしても新自由主義的な考えを用い、ダイバーシティだのの概念を振りかざして、局所的な制度を変えようとしていますが、その試みが失敗に終わるかもしれません。というのも、この大元を変えようとすると、社会保障制度から雇用制度といったマクロの面だけでなく、人材育成やキャリア形成といったミクロの面でも抜本的な変化が必要とされるからです。あれだけ古いと言われている終身雇用・年功序列がいまだになくならないのは、他のシステムとの相互補完がありすぎて、変えようにも変えられない状態になっているからだといえます。終身雇用をなくすならば、じゃあ給与体系はどうなるんだ?今までこのシステムで頑張ってきた社員は一体どうなるんだ?年功序列を変えるとするならば…という具合に。
以前MBAの授業で、日本の社会制度について取り上げた授業がありました。その中でも同様の指摘がされていました。その中で日本研究を専攻する教授が、興味深い主張をしていました。というのも、この社会システムというのは、第二次世界大戦後に日本が平等と生存という二つのキーワードをベースにして作り上げたシステムであり、明治維新や敗戦レベルの非常に大きな変化を伴わない限りアップデートは難しいというものです。なぜなら、2011年のあの未曾有の大震災でも日本は結局変わらなかったから、というのが彼の理屈で、その大きな変化というのが領土問題でなければいいのだが、と嘆いていました。すなわちそれぐらいのインパクトがないと変えるのは難しいというのです。
著者は、今のこの構造は改善の兆しを見せていると主張しています。このレベルの変化は、ビジネスではなし得がたく、政策の実行が必要となりますが果たしてどうなるのか。それは私がこれから日本に帰って実体験で感じていくことになるのでしょう。
では、では
最後の授業で、日本の社会問題について考える
今日は私にとって最後の授業でした。「私にとって」というのは、どの選択科目を履修しているかによって終わるタイミングが変わるためで、早い人だと1ヶ月前に終わっている人もいます。
兎にも角にも、これで終わりです。必須科目15、選択科目12の合計27コマ、計567時間の授業は、こうして終わりました。
そしてそれらを振り返ると、何か具体的なものを学んだというよりは、様々なトピックで色々と考えさせられる日々だったなと感じています。もちろん、コア科目を中心に新しい知識を習得することができました。しかしそれらは、どちらかというと今まで自分が勉強してこなかった範囲においての、非常に薄い内容になってくるので、新しいものを得た!という感動よりかは、自分はああこれを見逃していたんだなという反省の方が大きかったような気がします。それ以上に印象に残っているのが、ケースを通じての「いやまてよ、こんな場合はどうするんだ」と言ったような、答えのない問いであり、そんないまだ解決できていないオープンクエスチョンがいくつも私のノートに蓄えられています。そういうわけで、内向型人間の特性を十分に生かし、このブログ等を通じたリフレクションを通じて考えのストックを貯めて言ったような、そんな一年だったのかもしれません。
今日の最後の授業も、またそんなINSEAD生活を象徴するものとなりました。この授業のタイトルは、Business Sustainable Thinking。持続可能なビジネスについて考えるというものですが、メインとなるのは、ビジネスオペレーションの理論をベースに、国連が提唱するSustainable Development Goalsという17の目標について、ビジネスの観点からどのようなアプローチができるのかというものを考えていく授業です。
実は私、この授業を取っておいてはなんなのですが、あまり社会起業家というものについて良い目で見ていません。松下幸之助の思想にどっぷり浸かってしまい(笑)、「この世に社会に役に立たない仕事はない。お金をもらっている以上何かしら社会に貢献している」という考えの持ち主ですので、ことさらに社会貢献を謳う社会起業というものについて、うさんくささを感じてすらいました。そんな中でなぜこの授業を取ったのかというと、とは言いながらも資本主義の限界については興味があったし、そうしたうさんくささをどうやって理論武装するのか、という論理展開の組み立て方に単純に興味があったという非常にひねくれた理由です。そして、今日その最後の授業があったわけです。あとは、Sustainablityに出てくるサーキュラーエコノミーという概念についてもう少し理解を深めたい、という気持ちもありました。渡航前に日本で関連する書籍を読んだのですが、それの知識の整理をしたかったのかもしれません。
- 作者: ピーター・レイシー,ヤコブ・ルトクヴィスト,牧岡宏,石川雅崇,アクセンチュア・ストラテジー
- 出版社/メーカー: 日本経済新聞出版社
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- メディア: 単行本(ソフトカバー)
- この商品を含むブログ (2件) を見る
最後の授業では、授業の中で各グループが、Sustainable Development Goalsから任意で一つを選び、それの解決に役立つ新しいビジネスモデルを提案するというものでした。我がグループは、アメリカ人・ベトナム人・台湾人そして私のグループで、シンガポールにおけるホテル産業の食品廃棄物をなくすビジネスモデルを発表、なかなかの好評で終わることができました。本来ならばそれで気持ちよく終わるはずだったのですが、そのあとのグループの発表が私を非常に憂鬱にさせてくれました笑。というのも、そのグループのトピックが、日本の女性不平等を解決するモデルだったからです。
そのグループでは、エンジニアに着目し、理系における男女比のばらつき(そのグループのプレゼンによると、2015年時点で女性比率は15.7%)を解決するための企業の採用活動の改善を試みるというのがビジネスモデルの主旨でした。その授業では私が唯一の日本人だったので、そうした悲惨な状況が取り上げられ他の国からの学生が、「マジかよ、そんなひどいのか」という表情をするのを横目に見るたびに、少し肩身の狭い思いをしました。教授は、Gender Equalityについて政策ではなくビジネスモデルとして取り上げたのは興味深いと締めくくっていましたが、個人的には腑に落ちません。それは二つの観点においてです。一つがジェンダーについて、もう一つが、「エンジニア」についてです。
従来、女性平等の取り組みを行うのは政府や地方自治体でした。実際に日本においても、内閣府男女共同参画局という組織があり、毎年男女共同参画白書というものを発行しジェンダー平等についての提言を行なっています。
こうやって数字で見れば、ああ、それなりに女性の社会進出ができているんだな、という実感が湧くのですが、どうしても肌感覚では理解が進みません。そして、政策がうまく機能しているとも思えません。
そこで、労働者の内訳を見てみると、一つの考えが浮かび上がります。女性のほとんどが非正規雇用者となっており、ここにおいて男女の差が顕著に見られます。ではなぜ非正規雇用者が圧倒的に多いのかというと、これは一つの仮説に過ぎませんが、出産・子育てを経てキャリアが断絶されてしまい、男性と同様のキャリアを歩めなくなってきているというものです。以前も日本の総合商社の大手である伊藤忠商事を取り上げた番組内で、育休・産休を取得し復帰した女性総合職の社員が、面談の際に上司に「育休・産休を取得していない他の同期と比べてビハインド」「経理・総務だと定時で帰れる」といったような、育休・産休をキャリアの障害と考えていると捉えられかねない内容のドキュメンタリーが放映され、一部twitter界隈では大いに盛り上がりました。
でも、少し考えて見ると、何も出産・子育てをするのは日本人だけではありません。全ての人間が等しく子供に接するわけですから、それは理由として成り立たないわけです。
おそらくここで問題になってくるのは、「出産・子育てをキャリアの障害と考えてしまう」日本人の認知のあり方にあるのでないのでしょうか。そうした社会的な暗黙のルールを変えない限り、たとえ表層的に仕組みや制度を変えたとしてもうまくいかないのではないか、というのが個人的に考えるところです。
そして二つ目の「エンジニア」について。ここではエンジニアにおける女性の進出が遅れているという点を指摘しています。しかし、エンジニアの地位向上という点においては、男女に関係なく日本は立ち遅れていると叫ばれています。特に近年着目されているAIの分野においては、日本は世界の4%にとどまるとされており、他の国と比べても大きく遅れをとると言われています。
しかし、他の国々と比べてAI人材が不足している、エンジニアを中心とした人材が不足しているという点に着目するあまり、矢継ぎ早に技術面へのフォーカスをするというのも疑念がぬぐえません。というのも、過去に以下の記事を見てしまったからです。
これは、一橋大学の文系の教授が、文系科目への予算減を背景に様々な圧力を受け、結果として国立大学を離れるという一連の出来事をまとめた記事です。現在学術界における世界的評価の向上を目指す動きが高まっており、その一環で、「結果の見えやすい」理系分野への投資のフォーカスが行われていると聞いていますが、その一方で、文系特に哲学や歴史といった人文科学系の縮小が大々的になされているといいます。こうした背景を知るにつれて、どうしても「エンジニアにフォーカスを当てるのが良いことなのか」という問いがつきまとうわけです。
INSEADという世界をターゲットにしたビジネススクールにいっておきながら、最後の最後まで日本の問題にしか注目できないのは自分の知識の浅はかさではあります。ただ見方を変えれば、こうした日本の社会問題は、世界をターゲットにするビジネススクールにおいても奇異の対象として見られているのかもしれません。卒業後に日本に戻って仕事をする身として、少し気が引き締まるような、そんな思いを抱いた最後の授業でした。
では、では
シンガポールでMBA留学するメリット
近年シンガポールのMBAプログラムを希望する日本人が増えているようです。シンガポールには、シンガポールの大学がMBAプログラムを有しているのはもちろんのこと、INSEADのようなもともと欧州にあるような学校がシンガポールにキャンパスを有している場合も多く、後者においてはシンガポールが欧米圏からみて「アジアへのアクセスのきっかけ」という場所として機能していることがわかります。
私もINSEADのMBAプログラムで半年近くシンガポールに滞在していますが、欧州では感じられなかった、シンガポールにいる日本人ならではのメリットを色々と感じています。学業面・生活面において、ここで感じた点をまとめてみたいと思います。
①住みやすさ
今まで欧州・アジアと様々な地域に滞在してきた私ですが、今までの経験から言っても、シンガポールの住みやすさは他の都市とは比べ物になりません。食事の面で言えば、日本のレストランはもちろんのこと、食品や雑貨などがローエンドからハイエンドまで豊富に揃います。日本人の駐在員が多いことも影響しているのかもしれませんが、「日本のモノの豊富さ」という点にフォーカスすれば、親日と言われる台湾を凌駕していると思います。
また、病院等のインフラも充実。欧州ではなかなか見つけることができない日系病院もあります。
②多様性のバランスの良さ
ご存知の通り、シンガポールは多民族国家です。中華系が大多数を占めてはいるものの、インド系やマレー系も多いです。そして意外に思われるかもしれませんが、欧米系の滞在者も多く見かけます。
そして多様性のみならず、その多様性の中身が日本人にとって非常に学びになります。というのも、私がフランスに滞在していた時には、ヨーロッパを中心に、アフリカ・西アジアが大多数でした。これらの国々は、正直なところ日本人にとっては馴染みが薄じく、また特定のインダストリーを除けばこれらの地域とビジネスで接することはあまりありません。一方でシンガポールは多くが中華系。ビジネスの面でフォーカスすれば、ますます影響力が強まる中華圏に触れることができるのは日本人にとっては非常にプラスに働きます。加えて、中国本土の中国人とは異なり、シンガポール人はインターナショナルで非常に接しやすいですので、中国になれない方々でも容易に接することができると思います。(とはいっても、シンガポール人特有の相性というものがありますので、そこは個人差があるとは思いますが)
③ビジネスでの接点とシンガポールのアクセスの良さ
現在日本の多くの企業が、成長著しい東南アジアへの進出を強めています。中国における地政学リスクがますます増える中で、生産拠点を東南アジアに移管するメーカーも多いだけでなく、市場としての魅力も増えているようです。2000年代後半に日本国内で、「世界の工場から市場へ」と中国がよく揶揄されていましたが、それと同じような現象が今東南アジアで起きていると言えます。
シンガポールは東南アジアの玄関口として、他の国へのアクセスも抜群。隣接するインドネシアやマレーシアはもちろんのこと、タイやミャンマーにも非常に短時間で行くことができます。INSEADの学生も、週末にこれらの国々によく旅行に出かけていました。そうした点では、非常に魅力的な地域である東南アジアでビジネスの勉強をするのは非常に理にかなった選択と言えるでしょう。
もちろん、何を目的とするかで、ロケーションやプログラムの選択基準は変わってきます。例えば欧米で仕事をしたいということでしたら、もちろんシンガポールにいるのはデメリットにはなれどメリットにはなりません。また国際感覚を身につけるという点で言えば、たとえ多くの欧米からの駐在員を抱えていると雖も、シンガポールはアジアに傾倒しすぎていると言えるでしょう。逆にアジアを中心にキャリアを考えていきたいという方にとっては、シンガポールは非常に魅力的な選択肢になるのかもしれません。
では、では
一年制MBAのメリット・デメリット
6月も半ばに差し掛かってきて、授業の残すところあと少しわずかとなってきました。卒業する前に、なんならこのINSEADに在籍している間に、MBAとキャリアに関する情報も発信できればなと思います。
MBA特に海外フルタイムにおいては、2年制のものと1年制のものと二つのタイプがあります。2年制はアメリカをメインとしており、1年制はINSEADを中心とした欧州のビジネススクールに多い傾向があります。私はこの中でも1年制のビジネススクールをメインで受験し、INSEADにて勉強を進めてきましたが、その中で色々とメリット・デメリットがより鮮明に見えてきました。
ここでは実体験ベースで、1年制MBAのメリット・デメリットについてまとめたいと思います。
・メリット
①密度の濃い学生生活
やはり何と言っても、1日1日が濃いというのが特徴な気がします。これはカリキュラム・マインドセット双方から言えることですが、とにかく1日1日が濃密なので、非常に濃い学生生活になります。
例えば授業について。選択科目の授業は1単位で14コマ(1コマあたり1時間半)なのですが、0.5単位の授業となると長くて2週間、最短で週末の2日間で終わってしまいます。1単位の授業でも最短で2週間で終わります。なんでこんなことが起きているのかというと、一週間で4~7コマを一気にやるのです。もちろんだからと言って容赦はなく、がっつり課題やグループワークが入ってきます。
そして課外活動でも、やりたいことはすぐにやるという気持ちが働きます。1年で短いということもあり、多くの学生のマインドセットとしては、「今やっておかないと多分次できない」という生き急ぐ形の人が多い印象です笑 このため、旅行にネットワーキングに多種多様な動きをして行きます。このため、必然的に1日あたりの濃密度が高まってきます。
ただし、忙しさのレベルでいうと、正直なところ働いていたときの方が時間的拘束は長かったような気がします。時間を自分でマネージできますし、時間を調整して日中に子育てをできるわけですから、ある程度のゆとりもあるのかなと思います。
②就活の時間はしっかりある
1年制MBAだとよく受ける質問が、「就職活動大変じゃないですか?」というもの。インターンシップもできずそのまま一発勝負で選考に臨んでいくため、学業との両立を懸念するのも自然のことかもしれません。
ただ、個人的には逆に就活の時間は十分にあると考えています。一つ目は、カリキュラムがしっかりと調整されているという点です。他のビジネススクールはわかりませんが、少なくともINSEADにおいては、就職活動が解禁となる時期から、選択科目の推奨履修数がとても少なくなっています。このため1年制といえども、学生は就職活動に比較的時間をかけることができるのです。二つ目に、就職活動の効率性があるのかなと思います。というのもコンサルや事業会社の一部などすでにINSEADの多くの学生が志望する業界については、選考プロセスがグローバルで共通化されており、多くの学生が同じタイミングで同じ選考に臨みます。このため、情報共有や対策といった選考への準備にかける労力を節約でき、効率的に就職活動ができるというメリットがあるのです。
・デメリット
①知識の深堀ができない
個人的には1年制MBAで一番満足いっていないところかなと。上述した濃密な時間と一見矛盾する内容ですが、知識の探究という点においては正直1年制では短い気がします。もちろん、授業の内容等は全く問題はないのですが、その授業で得た課題意識や問題意識を、自分自身でさらに深掘りするには時間がありません。物理的な時間的制約があるため、授業のための準備や試験に費やすことがどうしても優先になってしまいます。一方で、そこから一歩進んで、例えば授業のケースに関連する本を読んでみたり、授業で推薦される文献を自分で読み解いていくといったことは、なかなかできません。
とはいっても、少なくともINSEADにおいては、「P6」と呼ばれる、卒業式〜仕事始めまでの時期が存在します。幸運なことに私も1ヶ月半ほどこの期間があるので、ゆっくりと自身の知識の探究に費やすことができればなと思っています。
では、では
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