河野哲也『暴走する脳科学〜哲学・倫理学からの批判的検討〜』〜読書リレー(73)〜

 

 最近注目を集めつつある脳科学について、テクノロジーの進展に伴う哲学・倫理学的な諸問題を扱った本です。新書らしく概論的な形でコンパクトにまとめられており、私のような門外漢にも比較的わかりやすい文体で書かれています。

 

この本で扱われているのが、脳科学の発展に伴って浮上してきた以下の倫理的問題です。

 

脳科学者がいうように、脳研究は、本当に心の働き(知性、記憶、道徳心など)の解明をもたらすのだろうか。

②それ以前に、そもそも、心と脳とは同じものなのだろうか。脳イコール心といってよいのだろうか。

③脳を調べることで心の状態を読むこと、いわゆるマインド・リーディングは可能だろうか。

④脳研究から得られる知識は、心に関するこれまでの考え方や自己観にどのような変更をもたらすのだろうか。人間の行動は脳のメカニズムによって決定されていて、自由などは幻想にすぎないのだろうか。

⑤脳研究が、医療・教育・司法(犯罪捜査、裁判)などの分野に応用されると、どのような社会的インパクトをもち、どのような倫理的問題が生じるのだろうか。

 

これらの問題に対して、分野横断的な解が提供されています。

 

特に私が気になったのは⑤です。脳科学の発展に伴って、人間の脳のメカニズムなどがだんだんと解明されてきています(それでも、他の分野に比べれば遅れているという指摘がありますが)。しかしそれは倫理面でリスクがあるというのです。

 

ここで関連してくるのが、本書でも紹介している心理主義という考え方です。心理主義とは、自分の行動に関わる問題が生じたときに、つねに自分の内面へと注意が向き、自分の意識や心的内容こそを改変しようとする傾向をさすのだそうです。そして、心理主義の問題は、自分の目の前にある困難を生じさせたのが自分の心理(態度、性格、考え方など)であると考え、その心理を生じさせている環境因、とくに人間関係的・社会的・政治的な状況に目が向かないことであると指摘しています。

 

脳科学によって、脳のメカニズムを科学的に捉えるということは、ある種脳の機能を「再現性」を持って実証できるということになります。それはすなわち、機械のようにプログラミングさせ、何か指示を出すと、100%(に近い形で)同じ反応が返ってくる、というようなことを探究しているのです。これが行き過ぎると、全ての事象に対し心理面で科学的に捉えてしまう、ということが発生してしまう、としています。

 

この考え方は危険なわけで、何か脳のメカニズムに関わる定理等が発見された場合には、それが正しいとして「一律」で実用されてしまう、という事態が発生しかねません。それは、環境面、例えば人間関係・社会的状況よりも優位に立つため、これらを度外視した形で適用されます。

 

しかし実際には、人間は社会的な動物で、それぞれの状況によって考え方や行動を変えるわけです。こうした特性を考慮せずに、脳科学の知見をそのまま活用していいものなのか?というのが、著者の投げかける問いです。著者の言葉を借りれば、「脳研究が、本人の意図と利益に反して個人をコントロールするテクノロジーとなってしまう危険性」というわけです。

 

こうした観点というのは、新しいテクノロジーが持つ「不安」と言えるでしょう。誰もが、新しいテクノロジーと出会う時は、不安を抱えるもので、テクノロジーに人間が支配されるのではないか、という焦燥にかられることはしばしばあります。

 

例えば、SNSサービスが普及する前まで、日本社会の中では、「実名でインターネットに何かを投稿すると、プライバシーが侵害されるのではないか?」という不安が蔓延しており、そうしたSNSははやらないという考えが一般的でした。しかしその不安は、今となっては杞憂であり、Facebookを始め多くの人が実名でコメントを公表しております。Twitterに至っては、つぶやきの回数比率では日本語が圧倒的な1位となっているほど、生活に浸透しています。

 

タップスの代表である佐藤航陽氏が著書の中で、「人々の持つ価値観が切り替わるタイミング、それは技術の実現する利便性が、人々の抱く不安を上回った瞬間です」と述べています。脳科学は人間の体を扱うため不安は他のテクノロジー以上かもしれませんが、利便性が上回った時、あっという間に普及する可能性もなくはないのかな、と思ってしまいます。

 

では、では