だじりブログ

日々の読書から広がる考察

保坂俊司『宗教の経済思想』〜読書リレー(83)〜

最近光文社新書の紹介が多いですが、これもKindle Unlimitedです。Kindle Unlimitedでは、光文社新書の比較的古いアイテムについては、ほとんど読み放題で読むことができます。また、光文社古典新訳文庫も読むことができるのです。私のようななんでもつまみ読みするような人には、とても嬉しいサービスですね。

 

宗教の経済思想 (光文社新書)

宗教の経済思想 (光文社新書)

 

 

ビジネスと宗教的な思想の考え方について、アメリカ・イスラム・仏教などの有名な宗教を取り上げながら、比較している本です。新書らしい浅く広くの範囲をカバーしているので、簡単に読み進めることができます。

 

この本の最後に、日本人と経済思想について描かれているのですが、その言及が興味深いです。山本七平氏の「日本教」という考え方を取り上げて、その姿勢を批判的に捉えています。

 

まず、日本人にとって労働は、忌み嫌うべき苦行でも、贖罪のための苦行でもなく、神聖な「まつりごと(神に仕える行為)」であるいいます。また日本人は労働、経済行為に特別な宗教的、つまり我欲を超えた社会とのつながり、社会への奉仕の意識を持っていたといいます。そして、その労働について、社会に奉仕し、勤勉であれば勤勉であるほど良いとされました。

 

その価値観の原型を形作っていたのが、日本に伝来した稲作の文化だといいます。稲は他の作物と異なり、灌漑設備が必要であったり、田植えや収穫に人手が必要だったりと労働集約的で、組織的な文化を育みます。そうした中で、勤勉かつ協調的な文化が形成されて行ったのは、ごく自然な成り行きだといいます。

 

ただし、勤勉だけでは稲作は成功しません。もともと稲は東南アジアの温暖な気候が原産であるため、日本、特に東北地方の寒冷地まで稲作が普及するのには、多くの努力が必要でした。このため、体を動かすだけでなく、常に改良や工夫が求められて行ったのです。ここで、日本人は稲作を通じて、より多く手を懸けることにより、多くの実りがなされるということを、体験的に知ることができました。この成功体験が、日本人のDNAとして刷り込まれ、日本的な勤労観の核になっていったというのです。

 

 

しかしながら、こうした勤労観は、あくまでも共同体内の中においてのみ機能するものだったと著者は述べています。すなわち、共同での作業の中においては、勤勉であることが求められましたが、共同体自体をなんとかするというところまでには力は働かなかったのだといいます。加えて、この考え方が転じて、共同体のためなら何をするのも辞さないという、滅私奉公的な勤労観の形成につながって行ったといいます。

 

この二つが重なると何が起こるのか。今自分の行なっていることが組織にとって良いのかどうかという成果の面は問われずに、ただひたすらに、身を粉にするような努力を求められるという共同体的圧力です。ここでは、努力あるいは貢献のみを求めて、その成果を期待させないという、ある種の盲目的服従の状態を作り出します。そこには行為に対する責任という発想は欠落してしまい、「私は組織のためにやっているのであり、責任は私個人にはない」という考え方に発展していきます。

 

この考え方がエスカレートしていくと、組織全体が悪い方向に向いているにもかかわらず、その組織を立て直そうという動きは起きず、盲目的かつ責任放棄的に努力をしつづける、という状態に陥るというのです。組織の暴走を止める価値観や基準が、欠落するか薄弱となり易くなるといいます。

 

このため、組織のトップでさえも、「自分は組織のために動いているのだ、責任は私ではなく、その組織にある」という考え方になり、責任感が欠落しがちだという事態に陥るのだといいます。第二次世界大戦の敗戦後の日本指導者達の言説や、現在企業のトップの人々の弁解に、こうした傾向を見いだすことができるというのです。

 

以上がおおまかな著者の日本の労働観に対する考え方です。上記についてはファクトに欠ける主観的な主張であり、100%そうだと言い切れるものでもないような代物なのですが、妙に納得してしまうのは私だけではないと思います。

 

この本でも取り上げられていますが、日本はかつて「エコノミックアニマル」すなわち経済や営利行動に狂奔する国民として揶揄されていました。1980年代において日本の経済が大きく成長した際、海外においてその姿は異様に移ったようです。外から見ると、宗教も家族も疎かにして経済活動(金儲け)に専念する日本人の考えは、非常に劣ったもの、理解できないものと捉えられていたといいます。この日本人の労働観については、もう少し深掘りして考察が必要になりそうです。

 

では、では