安い国日本は別に停滞していない

日本の皆さん、物価が安いとか経済が悪いとか騒ぎすぎじゃない?そんな悲観的にならなくてもいいんだけど。

 

 

 

日本の停滞を嘆くニュース

と思うようになった今日この頃。今日もそんな気持ちにさせるニュースがまた一つ。日本経済新聞が「価格が映す日本の停滞」というもの。ダイソーやディズニーランドの入場料が、他の国と比べて安いということをベースに、「日本の経済が停滞している」という議論に持っていっている。

 

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO53046270W9A201C1SHA000/

(有料記事になるので、非会員の場合は無料閲覧数が減ります)

 

この記事の論旨をまとめると以下のようになる。

①調査の結果、以下製品やサービスの価格が、他の国と比べて日本の方が安いことがわかった。

ダイソー:中国などアジア各国と比べて50%ほど

・ディズニーランド:アメリカと比べて半値近く

アマゾンプライムアメリカと比べて半値以下

・ホテル:ロンドンの一泊二日は東京の一泊二日の二倍以上

②他の国と比べて日本の価格が安い理由として、為替レートは一部だが、全てを説明しきれない

③実質賃金の上昇が、世界のトレンドに比べ低いので、日本の賃金停滞が物価を引き下げていることが理由として挙げられる

 

これらの議論をベースに、この記事が伝えたかったのは「日本は停滞しているのではないか?」というものだ。

 

ただ、ロジカルに考えると、この議論「?」となってしまう。以下にその理由を説明したい。

 

「①調査の結果、以下製品やサービスの価格が、他の国と比べて日本の方が安いことがわかった」の落とし穴

 まず①から見ていこう。記事では製品やサービスが日本で安いことがわかった、というものである。ただこれ、論理的には何も言っていないに等しい議論である。

 

理由は次の二点である。

(1)「価格が安いことがわかった」というのは、数多くある製品・サービスの一部分でしかない

今回の記事では、様々な製品・サービスの比較が紹介されているが、それでもこの世の中には様々な製品がある。それら全てを比較しなければ、「日本の方が物価が安い」ということにはならない。

 

事実、同一の製品で日本の方が高いものはいくらでも存在する。一番わかりやすいものでiphone11 pro。製品としては全く同じものであるが、SIMフリー版で一番安価な64GBモデルの場合、日本だと117,480円(税込)で、アメリカでは999ドル、本日の為替レートである108.59をかけると108,481円で日本の方が高いということになる。はい、これで反証完了。価格が高いものがありました。

 

(2)比較している製品・サービスは本当に同じものか?

今回比較しているものは、ダイソーやディズニーランドといった製品・サービスが含まれる。一見すると、同一のもので比較できるのではないか?と思いがちだが、これが違う。

 

というのも、ダイソーをイメージしてもらいたい。この記事では日本よりもアジアで売られている方が高いとし、日本の物価の安さを憂いているが、果たして安いことが間違っているのか?

 

一つ挙げられることとして、単純に製品にかかるコストが違うことが挙げられよう。すなわち、ダイソーは製品を日本から輸出しているかもしれない。そうしていると、必然的に関税や輸送費などの追加のコストがかかってしまう。また、製品のラベルなどを現地の言葉に変える必要が出てきてしまう。そうした費用が重なってくるので、たとえ製品が同じといえどもかかってくる費用が違うのである。

 

またダイソーの市場におけるポジショニングが関係しているかもしれない。日本においてダイソーは、100円であることに価値が置かれている。100円という他者を寄せ付けない価格戦略をキープしているからこそ、顧客の心をがっちり掴んでいると思う。これが仮に200-300円の製品ばかりになってしまったら、大元のイメージを損なうことになるわけで、顧客離れが起きてしまうかもしれない。

 

しかし同様の認識は、国が変われば異なってくる。海外に出ると、ダイソーは否が応でも日本ブランドとして認知される。そうなると、日本が持つ「品質の良い」ブランドが生きることになる。そうすると、必然的に市場におけるポジションは変わり、もう少し高めの価格設定にしたとしても顧客は寄ってくる。そこにマクロ経済的な、購買力はあまり関係してこないのである。

 

つまり、単純に製品の安い高いだけで、その国の購買力が見れるとは限らないというのがここのポイントだ。

 

「②他の国と比べて日本の価格が安い理由として、為替レートは一部だが、全てを説明しきれない」って本当?

為替レートが原因の一つというのは、確実にいえそうだ。というのも、実際に日本の為替レートはかなり安く設定されている。それは、この記事でも挙げられているビックマック指数を見てもわかる。*1

 

ちなみに余談にはなるが、この為替レートの低さが日本の輸出を増やし、国際市場における競争力を強め、結果的に日本の経済の底支えをしているということにもなる*2。さらには、為替レートが安い分、観光などのインバウンド需要が増えることになる。もちろん為替レートはインバウンド需要増加の理由の一つに過ぎないが、近年の訪日外国人の劇的な増加に影響を及ぼしていることは否定できない*3。となると、為替レートが原因の一つによって引き起こされる物価の安い現象は、別に悪いことでもないように思える。

 

「③実質賃金の上昇が、世界のトレンドに比べ低いので、日本の賃金停滞が物価を引き下げていることが理由として挙げられる」は言い過ぎ

最後に3つめの論点。これは流石に拡大解釈をしすぎている。

 

まず、日本の賃金は上昇している。事実、リーマンショックの2009年以降日本の平均賃金は確実に上むきに増加している。2018年は440.7万円であり、6年連続で上昇しているのだ*4。すなわち、日本の賃金は停滞していない。

 

また、記事の中では大企業のベースアップが渋いことを理由に、賃金がなかなか伸び悩んでいるという箇所があったが、これも大企業だけにフォーカスを当てて日本全てを見ていない。

 

まとめ

以上見てきた通り、物価が安いからといって日本が停滞しているとは必ずしも言い切れない。このように端的に結論に持っていくのも怖いのだが、何よりも怖いのは、色々な情報を見ても、最終的に「日本は停滞している」というネガティブな感情に持って行かれてしまう点にあるのでは。この前の教育の面でもそう感じたが、別にみんなが思っているほど、そんなに悲観的にならなくてもいいんじゃないかなと。

 

 

*1:ビックマック指数については、以下リンクのブログか、wikiを参考にするとわかりやすい。https://blog.mummysgold.com/tag/big-mac-index/

*2:為替と輸出の関係は以下リンクを参照されたいhttps://www.jftc.or.jp/kids/kids_news/japan/tokucho.html

*3:http://www.mlit.go.jp/kankocho/shisaku/kokusai/vjc.html

*4:https://www.jiji.com/jc/graphics?p=ve_eco_company-heikinkyuyo

「日本人の読解力が低下している」という嘘

数日前、様々なニュースで日本の読解力低下が叫ばれていた。だが、本当にそうなのか?いや、日本は別に読解力が低下していない。

 

 

1. なぜ読解力低下が叫ばれているのか?

なぜこのタイミングで、日本のメディアがこぞって読解力低下を嘆いたか。事の発端はPISAというテストの結果だ。OECD(経済協力開発機構)が3年おきに実施しているPISA(Programme for International Student Assessment)というテスト。OECD加盟国をメインとした国々の15歳の学生を対象に、「読解力」「科学的リテラシー」「数学的リテラシー」という三項目でテストを行い、その結果を公表している。2018年で行われたテストが今のタイミングで公表されたのだ。その結果が以下である。

f:id:Dajili:20191208171520p:plain

2018年PISAの結果

*1

 

ご覧の通り読解力が15位、数学的リテラシーが6位、科学的リテラシーが5位という結果になった。個人的には非常に健闘していると思うのだが、なぜここまで騒がれたのか。理由は読解力の15位にある。前回2015年の結果が6位だったのに対し、今回15位に急落しているのだ。

f:id:Dajili:20191208171814p:plain

PISA日本順位の推移

*2

 

6位から15位への転落。これだけ見ると、確かにやばい。これに様々なメディアが食いついたのだ。特に新聞社はこぞって社説に「読解力低下にどう歯止めをかけるか」という点にフォーカスを当てている。

 

毎日新聞

https://mainichi.jp/articles/20191205/ddm/005/070/044000c

読売新聞

https://www.yomiuri.co.jp/editorial/20191203-OYT1T50294/

 

特に、正答率が低かったのは、必要な情報を探したり、自分の考えを説明したりする問題だと、すでに分析がなされている。今回のPISAの結果を受けて、文部科学省が調査のポイントをまとめているのだが、そこにも以下のような記載がある。

 

◆【①情報を探し出す】や【③評価し、熟考する】に関する問題 【2018年調査新規問題】 ある商品について、販売元の企業とオンライン雑誌という異なる立場から発信された複数の課題文か ら必要な情報を探し出したり、それぞれの意図を考えながら、主張や情報の質と信ぴょう性を評価した 上で、自分がどう対処するかを説明したりする問題*3

 

確かに、順位だけ見ると急落しているように見える。この原因について、さらに原因の探求が必要となるだろう。しかしながら、この結果でもって今現在行われている議論の数々は、焦点がずれているというか、的を外しているのものが多い。

2. 読解力低下の理由づけは、理由になっていない

色々なメディアで報じられている、「なぜ日本の読解力が低下したか」という議論は、ほとんどが成立していない。理由が理由として成り立っていないからだ。具体的に、どのような議論が見られたのか、そしてなぜそれが理由として成り立っていないのか、見ていきたい。

 

スマホSNSの普及

一番挙げられているのは、スマホSNSといった普及が、子供のコミュニケーションを阻害しているという点である。実際に、社説の中でも専門家のコメントとして、以下が記載されている。

 

専門家は、低下の原因として、スマートフォンやSNSの普及で子どもの読み書きやコミュニケーションが短文中心になっていることを挙げる。調査では、日本の子どもがゲームやインターネット上で友人らとやりとりするチャットに費やす時間の長さも指摘された。

 一方で、小説や伝記、ルポルタージュ、新聞などまで幅広く読んでいる子どもは読解力が高いことが示された。長文に触れる機会を授業や課外活動で増やしていく工夫が求められる。

 インターネット上にフェイクニュースがあふれ、真実を見抜く力が求められる時代だ。紙かデジタルかにかかわらず、文章を批判的に読み解く力の大切さはますます高まってきている。*4

 

 

 誰もが様々な情報を発信できるインターネット社会では、情報の真偽を見抜く力が求められる。文章の表現力は、実社会で意見や提案を相手に伝える際に欠かせない。こうした力が足りないとすれば深刻な問題だろう。

 スマートフォンの普及により、子供たちのコミュニケーションでは、仲間同士の短文や絵文字のやりとりが中心になった。長い文章をきちんと読み、分かりやすい文章を書く機会が減っている。

 子供を取り巻く言語環境の変化が、今回の読解力低下の一因となっているのではないか。*5

これらの議論は、全く無関係だ。というのも、何もインターネット社会は日本に特有の現象ではない。グローバルに共通な現象である。もしこれが正しいのであれば、日本の相対的な順位はそのままに、グローバル全体で絶対的な点数が下がっているはずだ。 でもそうなっていない。グローバル共通の問題を、日本の固有の問題のように捉えてしまっている。

 

ちなみにPISAの分析では、この理由づけと反対の現象が起きていると指摘する。日本ではインターネットを利用する学生の比率が増えているのは確かなのだが、他の国も同様に、いやむしろ日本よりも早いペースで増加しているのだ。 

f:id:Dajili:20191208190958p:plain

日本とOECDの学生のインターネット使用時間の推移

*6

 

PISAによると、どの国も総じて、1日に4時間以上平日に学校外でインターネットを利用すると、成績に負の影響が出るとされている。そのため、インターネットを使えば使うほど点数が低くなるというのは言えなくはない。ただ、OECDの他の国に比べると、日本はインターネットの利用時間が総じて少ないのである。

 

これの結果を見て、「読解力低下はインターネットによるもの」というのは、必ずしもそうとは言えないのである。

 

②他にやることが増えた

もう一つの視点として、授業時間の他にやらなければならないことが増えたという点である。これで特に指摘されているのが「英語教育」である。

 

 英語教育の重視などで授業時間が増え、子どもも教師もゆとりがない中で、新たな試みをするには難しい問題もあろう。だが、読解力は学力の基本だ。*7 

 

特に、最近発生した英語教育に関する議論と相まって、「英語教育の議論に集中するあまり、日本語という大事な部分が削がれてしまった」というコメントがよく散見される。

 

ただ、よく考えれば、英語教育と読解力には、何にも関係がない。この議論の前提となっているのは、①英語を勉強すると、母国語である日本語での理解力が損なわれてしまう、②英語を勉強すると、母国語である日本語への勉強の時間が少なくなってしまう、というものである。ただ、この二つ共理由になっていない。

 

まず一つ目。英語を勉強すると、母国語である日本語の理解力が損なわれるとも言えない。これを正とすると、そもそも多言語文化を持つ国家であり、読解力でも上位である国家の説明ができなくなる。例えば、シンガポールは英語・中国語のほか、バックグラウンドによってはマレー系の言語を話せる人も存在する。バイリンガル・トライリンガルだからと言って、読解力が低下するとは言い切れないのである。

 

そして二点目。これについては、勉強に費やす時間とパフォーマンスについては相関関係が小さいと結論づけできる。以下のグラフはPISAの分析である。それぞれの国で、勉強にかける時間とPISAのテストの成績をプロットしたものだが、この散布図はばらつきがある。通常二つの指標が相関していると、これらプロットされた位置が固まったり、線状になるのだが、ここまで分散していると、勉強時間とパフォーマンスが相関しているとは言い切れない。

f:id:Dajili:20191208193757p:plain

各国別学習時間と成績の分布

*8

 

3. 読解力が低下しているという嘘

以上見てきた通り、「読解力が低下している」という議論で挙げられる理由は、理由になっていない。そもそも、3年毎の順位の違いで、読解力のレベルが変わったというのは、説明が非常に難しいのである。

 

というか、我々はそもそも論をしなければならない。疑うべきは、順位が急落していることが、読解力が落ちていることが、イコールで結ばれていることである。順位というのは、もちろん相対的に見た位置の違いを表している。しかしその相対的な違いによって、個別の能力が上がった下がったということは言えないのである。

 

まず、ランキング自体の考え方だ。テストの方法として、無作為に抽出された学校からテストを受ける学生が選ばれ、それをもとに平均のスコアが算出される。それには、もちろんばらつきがあるわけだから、有効範囲が設けられているのである。有効範囲はスコアの値で10設けられている。これを適用すると、日本は11位から20位まで動く可能性がある。これはあくまでも日本のばらつきであり、この範囲がすべての国に適用された場合、場合によっては日本は3位になる可能性もあるのである。こんなばらつきの多いランキングの順位に一喜一憂していても、あまり意味がないような気がする。

 

すなわち、あまり結果にはこだわらなくていいのである。単に急落したからといって、読解力が低下したというのは、あまりにもせっかちなのである。

 

むしろ、日本はしっかりと学力をキープしている。というのも、2000年の調査スタート以来、コンスタントに順位をキープしているからだ。例えば読解力でいうと、2000年の調査以来、全7回の調査の中で、連続して20位以内をキープしているの、実は6ヶ国しかない(フィンランド、カナダ、ニュージーランド、オーストラリア、韓国、日本)。20年近くにわたって、全世界のトップクラスをキープしているというのは結構すごいことなんじゃないだろうか。

f:id:Dajili:20191208202000p:plain

各国の順位推移

*9

 

また、PISAも日本には読解力の低下は見られないとしている。2000年から2018年の長期トレンドをまとめているが、その中で日本は、統計的に優位な変化がない国・地域に分類されているのである。

f:id:Dajili:20191208204016p:plain

各国のレベルの推移

 

*10

 

つまり、「日本の読解力が低下している」というのは大いなる嘘なのである。もちろん、だからと言って現状に安堵するのは悪いが、だからと言ってこの結果だけをもってして「読解力が低下している」というのはあまりにも騒ぎすぎなのだ。このPISAにまつわる報道は、あまりにもミスリードが多い気がする。

 

 

30歳過ぎた転職とUnlearning(アンラーニング:学習棄却)について

 最近、Unlearning(アンラーニング)という言葉をよく聞くようになった。

 

きっかけは、私が現在の会社に転職して、社内の色々な人と知り合うようになってからだった。「中途組はアンラーニングに苦労するから頑張ってね。」「前職のナレッジを使うと同時に、アンラーニングしていく必要あるよね。」

 

私はMBA留学を経て、31歳で現在の会社に転職している。まだ経験は浅いが、業界も異なるため、前職における仕事のやり方と大きな違いを感じている。そしてその違いに時として不快感を感じ、自分をどのように合わせていけばいいかわからなくなる時がある。どのようにその違いを乗り越えるか、色々な方にアドバイスを頂く中で、「アンラーニング」という言葉をよく耳にするようになった。

 

色々調べてみると、この言葉意外と奥が深いことに気がついた。なぜならこのキーワードが、個人のキャリア・トランジションや組織のトランスフォーメーションにも重要な概念なんじゃないかと思えてきたからだ。

 

少しこの言葉についての考えをまとめてみたい。

 

目次 

Unlearning(アンラーニング)とは何か

 

そもそもUnlearning(アンラーニング)とはどういう意味なのか。Learningという言葉は、学習という意味だ。それ反対の意味を持つ「Un」がつくことで、学習と反対の意味を有するのかもしれない。

 

この言葉の意味に疎かった私は、アンラーニングという言葉を調べて見た。

 

「アンラーニング」(unlearning)とは、いったん学んだ知識や既存の価値観を批判的思考によって意識的に棄て去り、新たに学び直すこと。*1

 

このコンテキストだと、前職で学んだ知識や価値観を意識的に捨てる、それがアンラーニングということになるらしい。

 

アンラーニングの対象

ただし、この言葉、もう少し具体的にいうと、主に二つを対象としているといえる。

 

  • スキルセットのアンラーニング

これは比較的想像しやすい。具体的に知識を有している、あるいは何かができるという能力について、過去と現在の使われかたの微妙な違いを認識し、過去自分が培ってきた能力を微調整する必要がある、ということになろう。

これは、自動車を運転するという例えで考えるとわかりやすい。自動車を運転するにあたり、我々は免許を取得するために自動車学校で運転の仕方を学ぶ。その時運転するのは大抵は小型の自動車である。そして、多くはマニュアル車の免許を取得する。ただし、実際に社会に出ると、自動車は小型に限らないし、車はほとんどがオートマティック車である。小型の車と大型の車では、車幅が異なることから曲がる時に異なったタイミングでハンドルを切る必要があるし、ミラーの位置や見える範囲内が異なることから、違う確認の仕方をしなければならない。小型車と大型車については、運転とは言ってもそのスキルが異なるといえる。

これが仕事でも言える。私の職場で照らし合わせれば、エクセルとパワポについて、必要とされるショートカットやフォーマットが違ったり、コミュニケーションにおいても、相手が何を求めているかが過去と現在で大きく異なることから、そこも調整が求められる。

 

 もう一つが、マインドセットだ。マインドセットとは、経験や教育などから個々人について形成される思考スタイルや価値判断で、ことアンラーニングの文脈においては、どのように仕事を進めていくかという価値判断基準に関わってくる。

これは、スキルセット以上に形式化されていないため、表現することが難しい。例えば、チーム内での上司との接し方や、自分の作業の進め方などが挙げられる。職場によってはこれらが明文化されているところもあるのだが、大抵は職場で大多数の人が慣れ親しんだスタイルをそのまま全体で流用しているというケースが多いのではないだろうか。

 

アンラーニングとトランジション

このアンラーニングという言葉、そこまで新しい言葉では無い。アンラーニングは早くから経営学者の研究の対象になっていて、例えば『知識創造企業』の著者で知られる野中郁次郎と竹中弘高は1985年という早い段階で、組織のアンラーニングに着目し、どのようにイノベーションと生産性向上の双方を両立させているかという実証研究を行なっている。*2また、日本国内でも、グーグルでUnlearningと検索すれば、それなりの数の研究の数がある。

しかし一方で、個人のアンラーニングについては実証研究が少ないという*3。「アンラーニングとは何かという定義において研究者間で合意に達しておらず*4、それが個人のアンラーニング経験についての研究を少なくしているという。

 

確かに、アンラーニングは、①対象(何をアンラーニングするか)そして②目標(アンラーニングして何になるか)という二つの点が曖昧で、それが研究の世界において疎まれる理由なのかもしれない。そもそも、ビジネスの世界で言われるような「スキルセット」だったり、「マインドセット」が、大抵の場合客観的に判断できるようなものでは無いため、再現性を求めるサイエンスからは疎まれるのはある意味では自然の流れなのかもしれない。

ただし、一方でリーダーシップ研究からは、アンラーニングに近い考え方を参照することができる。その一つに、トランジションがある。

 

トランジション ――人生の転機を活かすために (フェニックスシリーズ)

トランジション ――人生の転機を活かすために (フェニックスシリーズ)

  • 作者: ウィリアム・ブリッジズ,William Bridges,倉光修,小林哲郎
  • 出版社/メーカー: パンローリング
  • 発売日: 2014/03/15
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
  • この商品を含むブログ (1件) を見る
 

 

トランジションとは、William Bridgesが提唱しているリーダーシップ論のひとつで、「いかにして人はリーダーになっていくのか」という問題意識から、どのようにリーダーシップを育てることができるかという問いに答えを提供している。このトランジションはリーダーシップに端を発し、人はどのように変わるのか?という問いに広く答えることができるため、かなり多くの場面で使われている。

 

このトランジション、変化をするという点においては、アンラーニングと同じだが、トランジションは状況の変化ではなく、心理的に変わることによって引き起こされる、すなわち、外的環境の変化を伴わないという点で、アンラーニングとは異なる。アンラーニングは、ある環境から別の環境に動いた時に、以前所属していた環境で培ってきたものをどのように変えて新しい環境に適応するか、というダーウィンの進化論的な考え方をとるのに対し、トランジションとは「外的な出来事ではなく、人生のそうした変化に対処するために必要な、内面の再方向づけや自分自身の再定義をする*5」とされている。
 
トランジションは、(1)終わり(2)ニュートラルゾーン(3)新たな始まりから成り立つという特徴を有しており、以下法則があるという*6 
法則1:トランジションのはじめのころは、新しいやり方であっても、昔の活動に戻っている
法則2:すべてのトランジションは何かの「終わり」から始まる
法則3:自分自身の「終わり」のスタイルを理解することは有益だが、誰でも心のどこかでは、人生がそのスタイルに左右されているという考えに抵抗する
法則4:まず何かの「終わり」があり、次に「始まり」がある。そして、その間に重要な空白ないし休養期間が入る 

  

つまりここで言えることは、トランジションは昔のやり方から離れるために、相当な心理的な労苦を重ねる必要があるということだ。「変化」という点で共通するアンラーニングについても、外的環境の変化があるといえども、この心理的な労苦は付きまとってくることが想像できる。
例えば私の場合。転職したのは自分の意志であるし、業界・ポジションが全く異なる別世界に身を投じるわけだから、なんらかの変化をしなければならないというのは想像できていた。しかしいざその新しい環境に身を投じると、「変わらなければ」とわかっているものの、なかなか変わることができない自分がいることに気づく。今までやってきたことが自分のアイデンティティの一部になっており、今まで自分が慣れ親しんだ価値判断やスキルに変更を加えるということは、アイデンティティの一部を変える、時として否定するということに他ならない。ここから、アンラーニングは相当に難しいことがわかる。

 

 

なぜUnlearning(アンラーニング)が重要か

では、ここまで定義が曖昧で、そして実践には労苦が伴うアンラーニングが重要なのか? 私は以下の点で重要だと考える。

  • 技術の陳腐化のスピードが早くなっている(それに伴い、スキルの陳腐化も早くなっている)

よく言われていることだが、現在は技術の普及のスピードが非常に早くなっている。下の図はテクノロジーの普及率を時系列で表したものですが、電話や自動車・ラジオが発明されてから、普及するのに50年近くの歳月がかかっている一方、近年のテクノロジー、例えばPCやインターネットは、10−20年という比較的短いスパンで爆発的に普及している。

*7

 

ここから容易に想像できるのが、今後も多くのテクノロジーが、比較的短いスパンで普及する、ということ。この傾向はどんどん加速していくだろう。

こうした傾向に対し、人間も対応してかなければならない。具体的には、次々と新しい技術が導入されることにより、新しいシステム・組織・仕事のやり方を継続的に学ぶ必要がある。その際に、どうしても以前の経験や知見が邪魔をしてしまうことがある。それをアンラーニングによって解きほぐし、新しい学びへとつなげていく必要がある。そうした意味で、アンラーニングの場面と意義が大きくなっていると言えるのである。

 

  • 人生100年時代において、より長いスパンでのキャリア形成が求められる

これも一般論ではあるが、健康年齢が長期化と少子高齢化によって、現状の社会システムが成り立たなくなり、現役と呼ばれる年齢が長くなることが予想されている。これに伴って、より長期的なスパンでキャリアを考える必要がある。

この議論を広めたのが、リンダグラットン著『LIFE SHIFT ライフ・シフト』だろう。こうした長いスパンのキャリアにおいては、専門家と一般的に呼ばれる人々ですら、1つのことを掘り下げるだけでは食べられなくなってきて、次々と新しい分野を掘り下げる「連続専門家」になる必要があると言われている。

LIFE SHIFT(ライフ・シフト)

LIFE SHIFT(ライフ・シフト)

 

そうなると、何か一つのことに固執するのではなく、新しい学びを連続的に行なっていく必要がある。その中には、過去の学びを解きほぐして、新しいものへとアップデートする必要に迫られるものも出てくるであろう。こうした意味では、アンラーニングの機会が劇的に増えるわけである。

 

以上の二点から導き出されるのは、生涯を通じたアンラーニング機会の質的・量的増加である。10代や20代前半の、大学や最初の職場で学んだ基礎的なスキルを、連続的にアップデートしていく必要がある。

 

 

どうやってUnlearning(アンラーニング)を実践するのか

 さて、一番大事な部分である。どう実践するのか?これについては正直なところ、まだ解を持ち合わせていない。これについてこれから色々と考えていきたいと思っている。

 

このアンラーニングを調べていく中で、一つ面白いものを見つけた。スターウォーズヨーダが、アンラーニングについて面白いことを言っているのだ。 エピソード5、ルークスカイウォーカーがヨーダの元で修行をしている際、フォースの力を信じられないスカイウォーカーに対しYodaがこういうのである。

「Only different in your mind. You must unlearn what you have learned」

「There is no try」


Master Yoda Quote (TRY) | Star Wars V - The Empire Strikes Back (1980)

 

つまり、すでに外の環境はそこに存在している。変わっていないのは個々人の考えだけである。そして、「考えを変えることを試す」という段階は存在せず、「やるかやらないか」であるという。これがYodaの教えだ。うむうむ、なるほど。

 

--------

 

以上アンラーンに関する考えをまとめてみた。特に実践については内容が浅くなってしまったが、研究が少ない、また定義が曖昧ということからある種仕方がないかもしれない。今後自分の体験を交えながら、ここについての考察を深めていければと思う。

 

では、では

成長できる会社って何だろう?

久しぶりの投稿になります。転職してから仕事も一応は落ち着き、徐々にここでのアウトプットも増やしていきたいと思います。

 

さて、先日「圧倒的成長ができる外資系企業」というランキングを見かけました。これは、OpenWorkというサイトに投稿された外資系企業への社員クチコミを元に、「20代成長環境」と「社員の士気」の評価点を集計したものでランキングを作成したものだということです。詳細は以下リンクを参照ください。

https://www.vorkers.com/hatarakigai/vol_65

 

このランキングを見ると面白いのが、上位3社を戦略系コンサルティング会社が占めているということです。マッキンゼー、ATカーニー、BCGが上位3社となっており、他にもローランドベルガー、アクセンチュア(Strategyに特化しているのかは謎ですが)がランクインしています。個人的にこの中にベインがないのが不思議で仕方ありませんが、何れにしてもコンサルティング業界=成長ができる、というイメージと実績が形成されているということが言えそうです。

 

よく言われていることとして、コンサルティング業界は、「異なる業界のプロジェクトを短期間のサイクルで回していくため、成長のスピードが早い」というものがあります。

 

ただ、コンサルティングの内部の人間として疑問に思うのは、ここでいうところの「成長できる」というのは一体どういうことなんだろう?ということです。この「成長」という点について、ちょっと冷静に、ロジカルに考えて見ましょう。

 

まず「成長」という言葉を定義して見ましょう。成長というのは「今までできなかった何かができるようになる」ということと言えそうです。これは大筋は間違っていないでしょう。つまり、今までできなかった何かが、仕事を通じてできるようになる。これが成長というものです。

 

 

ただ、じゃあそれができるようになったからといって何がしたいのか?これに対する明確な答えを持っている人はそこまでいないように思います。そのスキルを身につけたとして、何がしたいのか?ここをはっきりさせる必要があります。また、かりに明確な答えがあったとして、そのキャリアを経験することによる成長が、本当に役に立つのか?という疑問もあります。

 

つまりここから言えることは、キャリアにおける成長というのは、とても曖昧なものでしか無いのです。何のための成長かわからない、そもそも成長そのものって何?という二つの大きな疑問がある以上、成長するというのは万人に共通する体験として成立しないと言えます。

 

このように、このブログを通じてキャリアについても考えていきたいと思います。

 

ではでは

 

帰国、そして次のステップに

6月末以来、長い休暇期間をいただいておりました。7月にINSEAD MBAを卒業し、日本に帰ってきました。

 

キャリアのトランジションとしての色が強いINSEADにおいて、私も大多数にもれず、戦略コンサルからオファーを貰うことができました。卒業式が終わった後日本に戻り充電を済ませたのち、9月から働き始めています。

 

INSEADを卒業して早2ヶ月経ちますが、改めて意義深い一年だったなと振り返っています。帰国してから周囲から「MBAどうだった?」という質問をよく受けますし、中には、「自分も進学を考えているんだけど」という相談もよく受けるようになりました。そこで私が一貫してコメントしているのは、非常に良い経験だった、ということです。

 

MBAは不要だ、MBAではリーダーシップは育たない、勉強の内容は大したことないなどなど、色々な議論が飛び交っています。しかしながら、実際に行ってみた身としては、これらの議論はそれこそ机上のものであり、実際に経験するとこれらの議論が非常に空虚であることがわかります。ことINSEADにおいては、臨場感かつ肌身を持って、世界各国のビジネスを学ぶことができます。異なる2〜3のロケーションに滞在し、2ヶ月単位でやることがガラッと変わり、異なるバックグラウンドのビジネスパーソンと議論を交わし、交友を深めることができるのは、少なくとも今までの人生になかったことですし、これからもなかなか味わえないものなのかなと思っています。

 

そうした中で、卒業後私は日本に戻るという決断をしました。ここで得た知識はある意味国際運転免許証のようなもので、どこでも車を運転できるような状態。その気になれば、海外で働くという選択肢もありました。それでも日本を選んだのは、やはりこの課題山積みの日本に貢献したいという想いが強かったんじゃないのかなと考えています。

 

9月から心機一転、戦略コンサルタントとしてキャリアを進めます。今まで経験したことのない世界で、新しい学びの連続ではありますが、30過ぎても学ぶことがあるというのは逆に嬉しいことで、日々成長を感じながらいければなと。

 

ということでこのブログも、MBA生活のレポートから、MBA×戦略コンサルという月並みバックグラウンドなビジネスパーソンの日々の備忘録という形で、仕事には関係ない、読んだ本・雑誌・記事をひたすらまとめていくというものにしていこうと思っています。

 

ということでゆるくしぶとくやっていこうと思いますんで、引き続きお付き合いください。

 

では、では

働く世帯の悩みは社会構造が原因かもしれない〜中野円佳『なぜ共働きも専業もしんどいのか 主婦がいないと回らない構造』*読書リレー(163)*〜

 前回の記事で、日本の社会問題、特に女性の社会進出について書きましたが、非常にタイムリーなタイミングでこの本が出たので思わず即ポチ。一気に読んでしまいました。

 

この本を読んでいて、正直なところ非常に悲しい気持ちになりました。これから日本で仕事をするという選択をした家族持ちの我々。海外駐在と海外留学の生活を終え、計2年半という時間ののちに日本に戻るわけなのですが、これから待ち受ける子持ち共働きの「しんどさ」がこの本にありありと描かれており、憂鬱になってしまいました。

 

この本では現代における共働き世帯、専業主婦世帯それぞれの状況について社会学のアプローチから分析を試みています。様々な世帯へのインタビューから日本全体の政策レベルの分析に至るまで、ミクロにマクロに縦横無尽の本となっており、とても興味深い一冊となっています。

 

前回の記事でも取り上げたように、日本では女性の活躍が叫ばれています。しかしながら、一向にそれが成果が上がらないのは、専業主婦を前提とした社会システムが作り上げられており、社会構造が変わってもなおその社会システムが、以前の社会構造を前提としたままにアップデートされていないためだと指摘。現代においては、ゴースト化した社会システムが人々の家族観・社会観も前近代のものへと引き戻してしまうという悪循環が発生してしまっており、「しんどい」の元凶になっている。現在では、テクノロジーの発展が局所的な改善をもたらしてはいるものの、政策レベルでの変革が必要。というのが本書のおおよその主旨になるかと思います。

 

具体的にいうと、次の通りで悪循環が発生しています。

 

①従来は、夫はサラリーマン・妻は専業主婦という社会構造が成り立っていました。企業もゆとりがあり、男性を正規雇用で雇い、終身雇用・年功序列という非常に安定的な雇用システムのもとで保護してきました。こうした中で、長時間勤務や転勤といった、企業内の制度だけでなく、子育てや教育といった企業外の暗黙の了解までもが、「専業主婦のサポート」を前提として設計されていった

 

②現在、女性の社会進出・活躍が叫ばれ、多くの企業が総合職で女性を雇い始めてきた。しかしながら、それは単純に、「女性を今までの男性と同様に働かせる」というものであった。「専業主婦のサポート」を前提として設計された現在のシステムでは、共働き世帯は想定されておらず、様々な弊害が生じてしまう。例えば先日、少し文脈は異なるが、育休明けに転勤を命じられ、断ったら退職に追いやられた、と夫の状況を嘆いたカネカのケースが話題になりましたが、これは、転勤が専業主婦のサポートを前提としていることに起因しているともいえるでしょう。

 

③そうした中で、共働きでは日本社会で生活することが困難となり、どちらかが会社を退職して専業になるケースが出てくる。これが増えてくると、企業側も「女性はどうせやめるのだから、研修や配属は男性とは異なる形で行おう」という統計的差別が行われ始める。例えば、先日あった東京歯科大の入学試験における女性差別は、その理由について「女性は結婚・出産でやめてしまうので、男性医師の比率を増やしたかった」と平然と語られていた。

 

④専業になると、結局妻の方が稼ぎが減ってしまう。このため、「私が専業で主婦を行うのも当然」というアイデンティティが芽生えてしまう。翻って夫の方も、「自分の方が稼いでいるのだから、妻が専業で家事をやってもらうのは仕方ない」という考えに落ち着いてしまう。

 

⑤そして、新しいアイデンティティを付与された女性は、専業主婦に活路を見出し、さらに自分で自分を追い込んでしまう。家事代行には、「自分の仕事を他に委託するとは情けない」として利用せず、食事も1汁3菜自分が料理しなければという「神話」に翻弄されるようになる。一方で夫も、自分を育ててくれた母親が専業主婦であることが多かったことからその像を妻にも当てはめ、家のことはなんでも妻にやらせようとする。夫の家事における時間が依然としてOECD内で最低レベルなのは、こうした認識がある。

 

繰り返しになりますが、こうした悪循環を断つために、社会システムをアップデートする、具体的には雇用制度をもう少し柔軟にすることで様々な働き方のニーズに応えていくべき、というのが本書の主張です。

 

この本を読んだ時、「これはまさに自分だ」と思いました。なぜなら、長女が生まれてから今に至るまでの間、家族とキャリアを巡って色々と考えてきたことが、この中に含まれていたからです。というのも、子育てを巡り、夫として、また育休中の妻として、様々な葛藤や衝突や悩みがあったのですが、それらと同様のストーリーが、この本の中のインタビューでも描かれているのです。

 

例えば海外赴任の話。私はMBA進学の前に前職で中国への海外赴任を命じられ、1年半駐在していた経験があります。ここでもまさに、「転勤」に対する社会的な考え方をまざまざと知ることになりました。部署の人は非常に理解のある人たちで、「結婚したてなのに申し訳ないが、事業の拡大のためにぜひ中国で頑張って欲しい」と背中を押してくれましたが、駐在の制度には思わず首を傾げたくなりました。というのも、その海外駐在の制度設計が、どう考えても共働き世帯に合わせたものとは思えなかったからです。例えば帯同の話。原則帯同者は現地で仕事をすることができません。帯同ビザという形で、現地で就業は制限されてしまいます。すなわち、海外駐在を命じられた場合、妻が会社を退職して専業主婦になって現地に帯同するか、それとも夫が単身でいくことのどちらかを選ばなければならないのです。

 

幸運なことに同タイミングで妻の妊娠がわかり、出産後に育休を利用して中国まできてくれました。大気汚染などが心配される中、言葉もわからない環境で家族で一緒にいるという決断をしてくれた妻には感謝しかありませんが、実は駐在中お互いにアイデンティティの危機を感じました。というのも、夫=仕事、妻=育休・家事という明確な立場の違いがあり、加えて中国という慣れない土地の中で妻はますます家事にコミットしていくという構図の中で、知らず知らずのうちに、自分の中で「自分は仕事をしているのだし、家事を手伝うと妻の存在意義にも抵触するだろうから」という気持ちが芽生えるようになりました。その顕著な例が、洗い物。駐在前までは自分で掃除洗濯洗い物等の家事を平等に行なっている自負がありましたが、気がつけば食事の洗い物を妻に任せる、そしてその任せるという行為が当たり前になっていくという状況になっていきました。これはまずいということで認識を変えましたが、あの時の心情はまさにこの本で描かれている悪循環がもたらす前近代的アイデンティティの回帰現象でした。

 

おそらく私も含めた30歳前後というのは、システムと認識の違いに翻弄される世代なのでしょう。というのも、幼い頃の家庭の原風景と、今の現状が似ているようで違うために、ある種の錯覚状態に陥り、余計に適応ができなくなっているためです。私の世代というのは、母親が専業主婦であるケースが多く、そうした専業主婦の母親を見て育ってきました。一方で女性の共働きが叫ばれているため、専業主婦という幼き頃の家族の原風景・求めるべき家族像と、今社会から求められる「共働き世帯」という家族像を二つとも求めようとするあまりに、社会システムのひずみの中にどっぷりと浸かってしまっている、ということになるわけです。

 

ただし、ここで一番の問題なのが、この社会システムというのが、様々な点で相互補完的に働きあっていて、この共働き世帯の悩みを解消するために局所的に何かを変えることはできない、ということです。現在この問題を解消すべく、またしても新自由主義的な考えを用い、ダイバーシティだのの概念を振りかざして、局所的な制度を変えようとしていますが、その試みが失敗に終わるかもしれません。というのも、この大元を変えようとすると、社会保障制度から雇用制度といったマクロの面だけでなく、人材育成やキャリア形成といったミクロの面でも抜本的な変化が必要とされるからです。あれだけ古いと言われている終身雇用・年功序列がいまだになくならないのは、他のシステムとの相互補完がありすぎて、変えようにも変えられない状態になっているからだといえます。終身雇用をなくすならば、じゃあ給与体系はどうなるんだ?今までこのシステムで頑張ってきた社員は一体どうなるんだ?年功序列を変えるとするならば…という具合に。

 

以前MBAの授業で、日本の社会制度について取り上げた授業がありました。その中でも同様の指摘がされていました。その中で日本研究を専攻する教授が、興味深い主張をしていました。というのも、この社会システムというのは、第二次世界大戦後に日本が平等と生存という二つのキーワードをベースにして作り上げたシステムであり、明治維新や敗戦レベルの非常に大きな変化を伴わない限りアップデートは難しいというものです。なぜなら、2011年のあの未曾有の大震災でも日本は結局変わらなかったから、というのが彼の理屈で、その大きな変化というのが領土問題でなければいいのだが、と嘆いていました。すなわちそれぐらいのインパクトがないと変えるのは難しいというのです。

 

著者は、今のこの構造は改善の兆しを見せていると主張しています。このレベルの変化は、ビジネスではなし得がたく、政策の実行が必要となりますが果たしてどうなるのか。それは私がこれから日本に帰って実体験で感じていくことになるのでしょう。

 

では、では

 

 

 

最後の授業で、日本の社会問題について考える

今日は私にとって最後の授業でした。「私にとって」というのは、どの選択科目を履修しているかによって終わるタイミングが変わるためで、早い人だと1ヶ月前に終わっている人もいます。

 

兎にも角にも、これで終わりです。必須科目15、選択科目12の合計27コマ、計567時間の授業は、こうして終わりました。

 

そしてそれらを振り返ると、何か具体的なものを学んだというよりは、様々なトピックで色々と考えさせられる日々だったなと感じています。もちろん、コア科目を中心に新しい知識を習得することができました。しかしそれらは、どちらかというと今まで自分が勉強してこなかった範囲においての、非常に薄い内容になってくるので、新しいものを得た!という感動よりかは、自分はああこれを見逃していたんだなという反省の方が大きかったような気がします。それ以上に印象に残っているのが、ケースを通じての「いやまてよ、こんな場合はどうするんだ」と言ったような、答えのない問いであり、そんないまだ解決できていないオープンクエスチョンがいくつも私のノートに蓄えられています。そういうわけで、内向型人間の特性を十分に生かし、このブログ等を通じたリフレクションを通じて考えのストックを貯めて言ったような、そんな一年だったのかもしれません。

 

今日の最後の授業も、またそんなINSEAD生活を象徴するものとなりました。この授業のタイトルは、Business Sustainable Thinking。持続可能なビジネスについて考えるというものですが、メインとなるのは、ビジネスオペレーションの理論をベースに、国連が提唱するSustainable Development Goalsという17の目標について、ビジネスの観点からどのようなアプローチができるのかというものを考えていく授業です。

 

実は私、この授業を取っておいてはなんなのですが、あまり社会起業家というものについて良い目で見ていません。松下幸之助の思想にどっぷり浸かってしまい(笑)、「この世に社会に役に立たない仕事はない。お金をもらっている以上何かしら社会に貢献している」という考えの持ち主ですので、ことさらに社会貢献を謳う社会起業というものについて、うさんくささを感じてすらいました。そんな中でなぜこの授業を取ったのかというと、とは言いながらも資本主義の限界については興味があったし、そうしたうさんくささをどうやって理論武装するのか、という論理展開の組み立て方に単純に興味があったという非常にひねくれた理由です。そして、今日その最後の授業があったわけです。あとは、Sustainablityに出てくるサーキュラーエコノミーという概念についてもう少し理解を深めたい、という気持ちもありました。渡航前に日本で関連する書籍を読んだのですが、それの知識の整理をしたかったのかもしれません。 

サーキュラー・エコノミー デジタル時代の成長戦略

サーキュラー・エコノミー デジタル時代の成長戦略

 

 

最後の授業では、授業の中で各グループが、Sustainable Development Goalsから任意で一つを選び、それの解決に役立つ新しいビジネスモデルを提案するというものでした。我がグループは、アメリカ人・ベトナム人・台湾人そして私のグループで、シンガポールにおけるホテル産業の食品廃棄物をなくすビジネスモデルを発表、なかなかの好評で終わることができました。本来ならばそれで気持ちよく終わるはずだったのですが、そのあとのグループの発表が私を非常に憂鬱にさせてくれました笑。というのも、そのグループのトピックが、日本の女性不平等を解決するモデルだったからです。

 

そのグループでは、エンジニアに着目し、理系における男女比のばらつき(そのグループのプレゼンによると、2015年時点で女性比率は15.7%)を解決するための企業の採用活動の改善を試みるというのがビジネスモデルの主旨でした。その授業では私が唯一の日本人だったので、そうした悲惨な状況が取り上げられ他の国からの学生が、「マジかよ、そんなひどいのか」という表情をするのを横目に見るたびに、少し肩身の狭い思いをしました。教授は、Gender Equalityについて政策ではなくビジネスモデルとして取り上げたのは興味深いと締めくくっていましたが、個人的には腑に落ちません。それは二つの観点においてです。一つがジェンダーについて、もう一つが、「エンジニア」についてです。

 

従来、女性平等の取り組みを行うのは政府や地方自治体でした。実際に日本においても、内閣府男女共同参画局という組織があり、毎年男女共同参画白書というものを発行しジェンダー平等についての提言を行なっています。

www.gender.go.jp

 

こうやって数字で見れば、ああ、それなりに女性の社会進出ができているんだな、という実感が湧くのですが、どうしても肌感覚では理解が進みません。そして、政策がうまく機能しているとも思えません。

 

そこで、労働者の内訳を見てみると、一つの考えが浮かび上がります。女性のほとんどが非正規雇用者となっており、ここにおいて男女の差が顕著に見られます。ではなぜ非正規雇用者が圧倒的に多いのかというと、これは一つの仮説に過ぎませんが、出産・子育てを経てキャリアが断絶されてしまい、男性と同様のキャリアを歩めなくなってきているというものです。以前も日本の総合商社の大手である伊藤忠商事を取り上げた番組内で、育休・産休を取得し復帰した女性総合職の社員が、面談の際に上司に「育休・産休を取得していない他の同期と比べてビハインド」「経理・総務だと定時で帰れる」といったような、育休・産休をキャリアの障害と考えていると捉えられかねない内容のドキュメンタリーが放映され、一部twitter界隈では大いに盛り上がりました。

tsubuchan.blog.jp

 

でも、少し考えて見ると、何も出産・子育てをするのは日本人だけではありません。全ての人間が等しく子供に接するわけですから、それは理由として成り立たないわけです。

 

おそらくここで問題になってくるのは、「出産・子育てをキャリアの障害と考えてしまう」日本人の認知のあり方にあるのでないのでしょうか。そうした社会的な暗黙のルールを変えない限り、たとえ表層的に仕組みや制度を変えたとしてもうまくいかないのではないか、というのが個人的に考えるところです。

 

そして二つ目の「エンジニア」について。ここではエンジニアにおける女性の進出が遅れているという点を指摘しています。しかし、エンジニアの地位向上という点においては、男女に関係なく日本は立ち遅れていると叫ばれています。特に近年着目されているAIの分野においては、日本は世界の4%にとどまるとされており、他の国と比べても大きく遅れをとると言われています。

www.nikkei.com

 

しかし、他の国々と比べてAI人材が不足している、エンジニアを中心とした人材が不足しているという点に着目するあまり、矢継ぎ早に技術面へのフォーカスをするというのも疑念がぬぐえません。というのも、過去に以下の記事を見てしまったからです。

gendai.ismedia.jp

 

これは、一橋大学の文系の教授が、文系科目への予算減を背景に様々な圧力を受け、結果として国立大学を離れるという一連の出来事をまとめた記事です。現在学術界における世界的評価の向上を目指す動きが高まっており、その一環で、「結果の見えやすい」理系分野への投資のフォーカスが行われていると聞いていますが、その一方で、文系特に哲学や歴史といった人文科学系の縮小が大々的になされているといいます。こうした背景を知るにつれて、どうしても「エンジニアにフォーカスを当てるのが良いことなのか」という問いがつきまとうわけです。

 

 

INSEADという世界をターゲットにしたビジネススクールにいっておきながら、最後の最後まで日本の問題にしか注目できないのは自分の知識の浅はかさではあります。ただ見方を変えれば、こうした日本の社会問題は、世界をターゲットにするビジネススクールにおいても奇異の対象として見られているのかもしれません。卒業後に日本に戻って仕事をする身として、少し気が引き締まるような、そんな思いを抱いた最後の授業でした。

 

では、では